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ハイジャック機救った
ANA元機長が語り伝えたいこと

ハイジャック機救ったANA元機長が語り伝えたいこと

 1999年7月23日、羽田発、千歳行きの全日空のジャンボ機(B747)が包丁を持った犯人にハイジャックされた。同機に乗り合わせた非番のパイロット(当時)、山内純二さんはコックピットのドアを体当たりで開けて操縦かんを握り、間一髪のところで旅客機(乗客・乗員517人)を救った。山内さんは全日空社内で事故の教訓を伝えるだけでなく、福島第1原子力発電所事故を起こした東京電力などにも講演活動を広げている。

次の勤務のため移動中の飛行機でハイジャックに遭遇

 ――事件について話し続ける理由は?

山内純二・全日空(ANA)元機長

 「航空機は安全になった。私がパイロットを志した昭和の時代はいくつも事故があった。大きな要因は安全のための機材が装備されたことだ。地表に近づきすぎたことをパイロットに知らせる対地接近警報装置(GPWS)や航空機同士の衝突回避装置などがある。また全日空にはオペレーションマネージメントセンター(OMC)という組織があって、世界で運航するすべての全日空機を24時間モニターしている。何かトラブルがあれば、その機体に精通した整備士がすぐに乗務員に助言を与えることなどができパイロットの負担を大きく軽減している」

 「ただどれほど手厚い備えをしても、思ってもみなかったことが起きる。ありえないと思えるようなことが現実に起きてしまうことがある。だから過去に何が起きたのかを伝え、安全に関わる多くの人が先人の経験を知ることが必要だ」

 ――犯人は羽田空港のハイジャック対策に抜け穴があることを関係者に手紙を送って知らせたうえで、自ら実行してみせたのですね。手荷物検査をかいくぐって包丁を機内に持ち込み、客室乗務員や機長を脅してコックピットに入り、機長を手にかけた。

ハイジャック犯が確保され、羽田空港に到着した全日空機を取り囲む関係者(1999年7月23日午後)

 「私は翌日の千歳からの勤務のためジャンボ機1階席の後方に座っていた。離陸後しばらくしておかしいと思った。低高度で海上を飛行しており北海道への飛行ルートから外れているのに機長はアナウンスをしない。ハイジャックされているなと思った。飛行機は伊豆大島に向かっているようだった。機内も異状を感じてざわつき始めていた。そこへCA(客室乗務員)が来て『後ろに来てください』と言う。後方のギャレー(厨房)に行くと、私と同じように移動のために搭乗していた乗員が数人いた。『飛行機はハイジャックされています』。そう言われても私は『やはり』と思うだけだった」

コックピットから聞こえた「地上接近」警報

 ――その後、数人で操縦室のある2階席に行くのですね。

 「2階席の雰囲気は異様だった。1階席がざわついていたのに対し2階は静まり返っていた。犯人は離陸後すぐに包丁をCAのひとりに突きつけて、機長にコックピットに入れろと要求したという。機長は副操縦士をコックピットから出して犯人を入れた。その一部始終を乗客は見ていた」

ハイジャック事件を報じる当時の紙面(日経新聞の7月24日付の夕刊=手前=と朝刊)

 「乗員の誰かが『最前列の席を空けてもらいましょう』と提案、最前列のお客さまに移動をお願いし、結果的に2階席の方は全員、1階席に降りていただいた。そのころ私の頭の中では、これからどうするか、手順のことばかりがぐるぐる回り、確たる考えがまとまっていたわけではなかった。それでも私が乗員の中で最年長だったので、みなの前に立ち『ここでは私が年長だから何か決めるときは私が指揮を......』と言いかけたところ、エンジンが絞られ機体が降下するのがわかった。窓の外を見るとビルが見える。『やばいぞ』と思った」

 「コックピットから出されていた副操縦士が『GPWSの警報がコックピットから聞こえる』と言う。『テレイン、テレイン』という警報は私にも聞こえた。地上にぶつかるという意味だ。私がCAに『(コックピットの)鍵はあるか』と叫ぶと、CAは大きく手を振った。持っていないということだ。私は体を反転してドアに体当たりした」

 「ちょうつがいが外れてドアが開くと、機長は操縦席であおむけになってぐったりしていた、私はその体に覆いかぶさるようにして操縦かんを右手でつかんで引き上げた。『間に合った』と思った。ところが今度は操縦かんがシェイク(振動)し始めた。これは失速をパイロットに知らせる警報だ。エンジンパワーを上げるスロットルレバーは私の右側にあって操作できない。『ダメだ』と思った瞬間、(自動で)レバーが全開になった。機長が自動速度維持装置をオンにしていたからだ。『天の助けだ』と思った」

 ――その間、犯人はどうしていたのですか。

 「副操縦士席に座ってぼうぜんとしていたようだ。私の後に続いてコックピットに入った乗員たちが取り押さえた」

 ――体当たりした時には何を考えていましたか。

 「実はお客さまの中で1人だけ『何かやらせてください』と申し出てくれたのだが、『危ないから』と下がってもらっていた。この声をかけられた瞬間に私は(気持ちが)シャキッとした。どうしたらよいのかは見当がついていなかったが、『戦うぞ』という覚悟が生まれたように思う。私が話の途中で突然体当たりをした時、みなは『山内さんは気が狂ったのか』と思ったそうだが、私は『こんなところで死んでたまるか』と感じていた。とっさに私が行動できたのは『覚悟』ができていたからかもしれない」

東京電力の役員会や福島第1原発でも講演

 ――間一髪の行動だったわけですね。

 「今でも奇跡のような出来事だと感じる。後から振り返れば、CAが私に声をかけてから警報を聞くまで、私はまっすぐに行動していた。お客さまに何か問いかけられて対応するなどで時間を費やしていたら、あの瞬間にあの場所にはいなかった。リスク管理の世界では『何層ものスイスチーズの穴をすっと抜けるように多重の備えをすり抜けて起こりえないようなことが起きる』という例えがあるが、私の場合は逆に(妨げになりえた)壁をすり抜けて奇跡のように間に合うことができた」

 「羽田空港に戻って全員を降ろし最後にタラップを降りた時、これで終わったと思った。亡くなった機長(長島直之氏)のご家族には申し訳ないが、何より全日空の事故によって多くの人の命を奪わなくて本当によかったと思った。長島は私の後輩で非常に優秀なパイロットだった」

 ――体験を様々な場所で話しているのですね。

 「全日空社内の新人機長研修などいくつかの機会で話し体験を伝えてきた。こうした話をすることに社内では消極的な雰囲気がなかったわけではない。しかし日立製作所元会長の川村隆さん(現在は東京電力ホールディングス会長)がハイジャック機に乗り合わせた体験を日本経済新聞の『私の履歴書』で紹介し、私の実名を挙げたことで雰囲気が変わった。危機に際してのリーダーシップの例として経営書などでも紹介された。また東京電力の役員会や福島第1原発などでも話をさせてもらった。重いものを背負った東電の皆さんにせんえつだと思ったが、福島第1の現場を見学させてもらってから私の話をした」

 「私は事件の後、悩んだ。多くの人を生命の危機の直前まで連れて行ってしまった。その償いをどう考えるのか。このことを忘れないで伝えようとすることが私の使命だと考えるようになり、今に至っている」

<取材を終えて> 不測の事態ではマニュアルを離れ自分の考えで行動する必要も
 事件直後、山内さんは取材を避けホテル暮らしを強いられた。その間、あのときの情景が繰り返しフラッシュバックして寝られなかったという。今も7月23日が近づくと気持ちがふさぎこみがちになるという。そんなことからあわやの大惨事に巻き込まれた乗員らの心のケア、トラウマ対策が大切だと話す。
09年にニューヨークのハドソン川にUSエアウェイズのエアバスA320が不時着水し乗客・乗員155人全員が生還した事故は「ハドソン川の奇跡」として映画化された。機長はベテランパイロットのチェスリー・サレンバーガー氏だった。
 多くの人の命を救った山内さんは「ANA(全日空)のサレンバーガー機長」と言えるかもしれない。今もなお様々な場所で講演活動を続ける背景には事件を人々の記憶から風化させたくないとの思いがあるからだ。
 「私の履歴書」のなかで、川村氏は山内さんの行動が実は航空会社のマニュアルに反していたと明かした。ハイジャック犯への当時の対処法は「犯人の言うことを聞く」が基本だった。川村氏は、山内さんのとっさの行動を例に挙げ、緊急事態ではマニュアルを離れ自分の頭で考え自分の責任で行動する必要があるとした。
 山内さんはスーパーマンではない。おそらく福島第1原発の吉田昌郎所長(故人)もそうではなかった。2人に共通したのは、おそらく山内さんの言う「覚悟」だったのだろう。自分の判断と行動に多くの人の命がかかっていると感じること、それを肌身から強く実感することが危機に際しての判断を分けるのではないか。
 危機のリーダーを誇大に英雄視することも過小評価することも好ましくない。事実を正確に記録し伝えることが大切に思える。

(編集委員 滝順一)[日経電子版2017年9月4日付]

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