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サッカー台湾代表の夢
文武両道支えた慶応SFC
時国司
オービス・インベストメンツ社長が語る(上)

サッカー台湾代表の夢文武両道支えた慶応SFC時国司オービス・インベストメンツ社長が語る(上)

 創立25年ながら、慶応義塾大学付属として高い人気を誇る慶応義塾湘南藤沢中・高等部(SFC、神奈川県藤沢市)。同校出身で、英系投資ファンドのオービス・インベストメンツ(東京都千代田区)を率いる時国司社長(36)は、在学中にサッカーの台湾ユース代表として活躍、その後のキャリアを大きく左右した。時国氏は「今があるのはSFCのおかげ」と話す。

 中学受験したのもSFCを目指したのも、自らの意思だった。

オービス・インベストメンツの時国司社長

 父親が台湾人、母親が日本人で、台湾で生まれましたが、1歳半の時に日本に引っ越してきました。

 地元のクラブでサッカーを始めたのは小学1年の時。小4の時にJリーグが発足するなど、サッカー人気が盛り上がっていた時期で、私もサッカーで台湾代表になるのが夢でした。ただ、プロの選手になることは念頭になく、将来はビジネスマンになるつもりでいました。

 この現実的な考えには、自分の置かれていた環境も影響していたと思います。父が経営する会社が軌道に乗るまで、一家の生活はけっして楽ではなく、日本に来た当時はケーブルカーが通るたびに揺れるような古いアパート暮らしでした。幼心に、大人になったら生活の苦労はしたくないという思いが強かったのだと思います。

 ビジネスで成功するには勉強が大事だと思い、自分から親にお願いして日能研に通い始めました。小4からは週末も塾だったので、サッカーは一度やめました。

 ただ、台湾代表の夢を捨てたわけではなく、どうすれば高いレベルでサッカーと勉強を両立できるか模索。見つけた答えが、中学受験して大学の付属校に入ることでした。付属校に入れば、受験勉強から解放され、自分が必要と思う分野の勉強をしながらサッカーに打ち込めると思ったからです。それで、英語とIT教育に特長を持つSFCを目指すことにしました。

 塾の成績は、具体的な目標ができて勉強に身が入り始めた5年生の中ごろからぐんぐん上がり、成績上位者だけを集めた特別クラスにも選抜され、それがまた励みになりました。全国で2万人ぐらいが参加する模試で上位30人に入ると塾の冊子の表紙に名前が載るのですが、3回ほど名前が載りました。

 SFCでは帰国子女と一緒に英語を学んだ。

時国氏は「帰国子女のクラスに移り最初は苦労したが、英語は格段に上達した」と話す

 当時日能研と四谷大塚が中学受験塾の二強のようにいわれていて、日能研で成績上位の子は、灘や開成、筑駒、桜蔭あたりを目指すのが普通でしたので、SFCに行きたいと言うと変な目で見られました。ところが、SFCに入学したら、日能研で一緒に勉強し、灘や桜蔭などに合格した子が何人もいて、ちょっと驚きました。

 SFCの売りものの一つが英語重視のカリキュラムです。英語の授業は実践重視で、先生は半数以上がネイティブ。授業以外でも英語を話す環境に置かれます。例えば、中1の時の担任は英国人でした。先生との会話は原則英語で、文化祭の企画書も英語。先生もそこは厳しくて、甘えを許してくれませんでした。

 私自身も、ビジネスの世界で生きて行くには英語は必須だと思っていたので、英語は一生懸命やりました。中1でABCから始めて、中2の時に英検2級に合格。中3の2学期からは、帰国子女向けの英語のクラスに移ることができ、英語でのディベート力なども格段に向上しました。

 とはいえ、帰国子女のクラスでは、最初は周りのレベルに付いていけず、苦労もしました。それでも頑張れたのは、クラスメートがみんな優しくしてくれたからです。帰国子女の多くも言葉で苦労した経験があるので、こちらの気持ちをよくわかってくれていたのかもしれません。

 SFCは留学プログラムも充実していて、私も長期休暇を利用してオーストラリアと英国に短期留学しました。一方、毎年行われる学校の旅行は、6年間ずっと国内。世界を舞台に活躍する大人になるためには、まずは自分たちの国のことをきちんと知っておこうという学校の考えだったようです。

 慶応大学を卒業した後、ゴールドマン・サックス証券に入り、ベインキャピタルを経てロンドンビジネススクールで経営学修士号(MBA)を取り、英国現地採用で今の会社に入りました。こうしたキャリアを歩んでこられたのも、SFCで身に付けた英語力が大きかったと思います。

 SFCのもう一つの売りものはITの授業でした。こちらも中学から「情報」という授業があり、プログラミングなどを学びます。ハマる人はハマり、高校在学中に起業する生徒もいました。私自身は、ITに関しては授業について行くだけで精一杯でしたが、それでも、当時エクセルを学んでいなかったら、ゴールドマンやベインでかなり辛い思いをしたと思います。

 中学で再びサッカーを始めた。

 台湾代表になる夢を再び追おうと、SFC入学後にサッカー部に入りました。しかし、徐々に、このままでは台湾代表にはなれないのではないかという不安を抱き、FC町田(現J2リーグFC町田ゼルビア)のユースチームのセレクションに参加。合格し、中3からはFC町田のユースでプレーしました。

 練習は土日も含めて週6日でしたが、夜7時に始まるので、学業との両立は問題ありませんでした。宿題は、授業が終わってから練習開始までの時間を利用できましたし、移動中の電車の中でも勉強していました。通学に片道1時間もかかるので、私にとっては電車の中が勉強部屋。その代わり家ではほとんど机に向かわず、親が心配したこともありました。この時の習慣からか、今でも飛行機の中が、仕事が一番はかどります。

 台湾のサッカー協会に自分を売り込むこともしました。手紙で、自分はこういう経歴で台湾代表に貢献できるから、アジアジュニアユース選手権にぜひ呼んでほしいと訴えましたが、すでにメンバーは決まっているからと体よく断られました。また、台湾にいないとプレーを見ることができないから、台湾の高校に入ることも勧められました。

 しかし、確固たる目的で入ったSFCを退学して台湾に行く選択肢は最初からありませんでした。それでも何とか代表入りしたかったので、日本国内の大会で結果を出すたび手紙を書き、新聞記事の切り抜きも同封して、アピールを続けました。
(ライター 猪瀬聖)[NIKKEI STYLE 2017年9月11日付]

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