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skill up-自己成長

「学年1位からビリに転落」
ドリコム社長の海城時代
内藤裕紀・ドリコム社長が語る(上)

「学年1位からビリに転落」ドリコム社長の海城時代内藤裕紀・ドリコム社長が語る(上)

 スマートフォン向けゲームを手掛けるドリコムの内藤裕紀社長(39)の母校は、私立海城高校(東京都新宿区)。昨年度も東京大学に49人が合格するなど全国有数の進学校だが、在学中の内藤氏は、先生も手を焼く問題児だった。それが今や、堂々たる「学校公認」のロールモデルに。その軌跡を振り返ってもらった。

 区立中学時代は陸上の中距離の選手で、東京都の代表にも選ばれた。

ドリコムの内藤裕紀社長

 スポーツだけでなく学校の成績もだいたいいつも学年で1番。高校は、スポーツの強豪校に進むか進学校に進むか少し考えましたが、進学校に入れるチャンスがあるなら進学校に入ったほうがいいという親の意向もくんで、進学校に進むことに決めました。ただ、中学3年の12月まで陸上の大会に参加していたため、本格的に受験勉強を始めたのは年が明けてから。そうした現実も踏まえ、海城を第一志望にしました。海城は、現在は完全中高一貫校ですが、私の時代は高校から入ることもできました。

 海城の校風も自分にぴったりだと思いました。明治時代に海軍予備校として創立された海城は、硬派な男子校として知られていました。中学時代に陸上部の厳しい練習で鍛えられ、バリバリの体育系だった私には、そんな海城の校風が合っていると思いました。

 実際に入学してみると、男子校ということもあり、チャラチャラした雰囲気は全然なく、先生たちの指導も厳しい。その面では期待通りでした。しかし、実際の学校生活は、スタートからつまずきました。

 まず部活動。海城の陸上部は強くないのはわかっていましたが、それでも陸上を続けたいと思い、陸上部に入りました。しかし、校庭は野球部とサッカー部に優先権があり、陸上部の練習場は近くの公園。散歩している一般の人を避けながら走らなくてはならず、タイムを計測しながらの練習もままならない。試合ではスパイクを履きますが、公園なのでスパイクでの練習すらできませんでした。

 高校に入って最初の大会に出場したら、中学時代は自分より遅かった選手が、みんな自分より速くなっていました。彼らは推薦でスポーツ強豪校に入り、恵まれた環境でハードな練習をこなし、どんどん力を付けていたのです。

 一方、私は、お世辞にも恵まれているとはいえない環境で、十分な練習もできず、試合の度にかつてのライバルに差を付けられていました。スポーツより勉強を選んで海城に入ったのだからある程度は仕方ないと思いつつも、陸上を続ける意欲は急速に萎え、1年の途中で退部しました。

 中学からの内部進学組は、中学3年の時に高校1年の学習内容を済ませていた。

東京都新宿区大久保にある海城学園

 私たち高校受験組は、最初から周回遅れの状況。しかも、いきなり内部進学組と同じクラスにさせられるので、いやが上にも差を見せつけられました。それでも、高校受験組は各中学のトップクラスの生徒が集まってくるので、ちょっと頑張って勉強すれば、内部進学組にすぐに追い付くことは可能です。実際、頑張ってすぐに肩を並べた生徒はたくさんいました。しかし私の場合は、受験による燃え尽き感もあり、勉強するモチベーションが一向に上がりませんでした。

 勉強への意欲がわかず、部活動も辞めた私のエネルギーは、本当は禁止されていたアルバイトに向かいました。普通の家庭でしたので、遊ぶ金は自分で稼がなくてはならなかったし、祖父が2人とも事業をやっていたので、商売人のDNAのようなものもあったと思います。

 高校1年の夏から、親にも学校にも内緒でいろいろなバイトを始めました。ビラ配りから、郵便物をポストに投函するポストイン、引っ越し作業の手伝い、海水浴場のライフガード、プールの監視員、ウエイター、いろいろやりすぎてもう覚えていません。バイト情報誌で面白そうなバイトを見つけては応募していましたが、断られたバイトも結構あります。例えば、東京ディズニーランドは、清楚じゃないという理由で、面接で落とされました。

 一応、学校にはちゃんと行き、バイトはもっぱら放課後と土日。1カ月10万円くらい、多い月は十数万円くらい稼いでいました。

 お金を稼げる以外に、バイトしてよかったなと思うのは、社会体験ができたことです。現場では必ず自分が一番年下なので、社員の方やバイトの先輩から、いつも厳しく指導してもらいました。ライフガードのような人命にかかわる仕事は、特に厳しかった。でも、高校生のうちから世の中や仕事の厳しさを肌で学べたことは、貴重な経験でした。後に、大学在学中に起業する際にも、とても役立ちました。

 また、年齢の違う人や様々な業界で働いている社会人の人たちと知り合う機会というのは、学校で勉強をしているだけでは、なかなか得られません。バイトを通じて世界が広がったと思います。

 しかし、アルバイトを始めたら勉強のほうはますますおろそかになり、成績は下がる一方。高校2年になった頃には、成績はいつも四十数人のクラスの中で下から2番目。ビリの生徒は不登校だったので、実質的には私がビリでした。成績は必ず壁に張り出されますから、自分の順位は明確にわかります。卒業までずっとビリのままでした。

 高校1年の冬、家出した。

「勉強もスポーツも中途半端な状態になり、何を目標に頑張ればいいのかわからなくなっていた」と振り返る

 忘れもしない1995年1月17日の朝。阪神淡路大震災があった日でした。大地震が起きたことも知らずに家を出た私は、親に電話で「家には帰らないから」と伝え、友達の家で寝泊まりしながら、学校に通いました。やがて、バイトでためたお金でウイークリーマンションを借り、そこからしばらく通学。結局、お金が底をついて、1カ月ほどで家に戻りましたが、家にあまりいない生活は相変わらずで、高校生活はますます荒れました。

 思えば、中学までの私は、勉強もスポーツも1番で、何の迷いもなく目標に向かって突き進んでいました。ところが、海城に入ると一転、勉強もスポーツも中途半端な状態になり、自分で何を目標に頑張ればいいのかわからなくなっていました。そういう精神状態が家出という行動につながったのだろうと、今振り返れば、思います。

 学校は休まなかったものの、バイトで疲れ、授業中はいつも寝ていました。それで先生に怒られる。成績が悪いといっては怒られる。モデルのバイトをしていた時に、ショーに出るために赤く染めた髪のまま学校に行ったら、怒られる。ピアスをしたまま柔道の授業に出たら、先生に柔道の技でさんざん投げられた挙句、「お前は畳を踏むな」と怒られる。とにかく、いつも怒られてばかりの問題児でした。
(ライター 猪瀬聖)[NIKKEI STYLE 2017年10月23日付]

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