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パキスタンから日本へ(2)大学で出会った運命の人と留学を計画

パキスタンから日本へ(2) 大学で出会った運命の人と留学を計画
authored by ミルザ・アセフ・ベイグSAFFRAN GROUP C.E.O.

 前回は私が生まれ育った町や、なぜ私が両親とはなれて暮らすことになったのかなどについてお話ししました。今回は私が進学した大学、また大学で出会った運命の女性について話をします。

パキスタンでも4Kテレビを売っています

 学校においての私は優等生ということができたと思います。学校を代表する生徒、日本の学校でいう生徒会長のような役職に選ばれたこともありました。また、先生や他の学生ともうまく付き合っていました。成績においても、学級のトップ10に必ず名前が載っていました。2年連続で「スペリング・ビー」という綴りの正確さを競う大会の代表選手にも選ばれました。多くのことに手を出す活発な生徒で、学校生活は今までの人生でも最高に良い時代であったと思います。

 ではどうして私は古巣を旅立ち、海外に行こうと思ったのか。それは私の夢でした。そこに暮らす人々の生活を垣間見、世界中の国について学びたい。私はパキスタンにいる時から歴史を勉強し、時には映画を見ては、外国を冒険する夢を膨らませる刺激を受けてきました。しかし、いつ冒険を始めるのか。どこに行くのか。そしてその目的とは。まったく想像もつきませんでした。

ハワイ大学パキスタン・キャンパスへ進学

 大学前教育のためのカレッジを卒業した私は、いよいよ大学生になる準備を始めました。その頃、ハワイ大学のパキスタン・キャンパスがファイサラバードに新しく開校したので、私はそこに進学を決めました。今までの大学とはまったく異なるもので、またファイサラバードにできた初めての大学でした。この大学で一緒に学んだ学生のほとんどが、留学や海外の企業で働くのを夢見ていました。

 私は経営学を専攻しました。その頃の私には「ビジネスを学び、起業し、なんらかの形で海外にいこう」ということしかありませんでした。入学初日のことです。学長と教授たちがステージに上がり、学生たちを歓迎しました。他の大学と比べて、さほど代わり映えもしない入学式でしたが、学長がある人物を紹介したことが私の運命を大きく変えていくことになりました。その人物が私の人生にたくさんの選択肢と分岐点を与え、実際それらは今思い返しても、偶然で思いのよらないものでした。

妻とビニシュと

 学長は声も高らかにその人物の名前をマイクで読み上げました。「金賞を受賞したビニシュ・ザヒドさんが、自身のさらなる研究を進めるために我々の大学に来てくれました」。彼女こそ、のちに私の妻になる女性でした。

 ビニシュは2000年、パンジャーブ州において経済学でトップの成績を収め、受賞しました。当時ファイサラバードのいたるところに彼女のポスターが飾られ、パキスタンの新聞にはどこでも彼女の記事を読むことができるほどでした。町中で有名人となった彼女が、どのようにして全州何百万人もの学生の中から金賞を勝ち取ったのか、皆が噂し、一目見たいと思っていました。

 彼女のような受賞者が学業を続けるために入学を決意したことは、学生たちだけでなく大学にとっても良い緊張をもたらしたことでしょう。入学式も終わり、私たちは講堂に向かいました。担当の教授や同学部の学生との顔合わせ、履修科目の登録などをするためです。そこにあのビニシュ・ザヒドがいたのです。私は驚きを隠せず、また嬉しくてたまりませんでした。その時にはまだ社交辞令的な笑顔と短く交わした挨拶程度の関係が、数カ月後の映画のようなラブストーリーに変わるとは、思いもしませんでした。

入学6カ月で留学を計画

 パキスタンのような国で恋愛を始めるのは、並大抵のことではありません。文化も宗教も、社会的にさえ男女がコンタクトを取ることを快く思っていないのです。ですから二人で過ごす時間はとても限られていて、キャンパスで会う時も、明確で具体的な目的がなければ、話すことも席を共にすることもできませんでした。キャンパスの外で、というのは全く論外だったのです! 2000年の初め頃ですから(日本では驚かれるかも知れませんが)、携帯電話もまだ普及しておらず、家の固定電話は家族から厳しく監視されていました。そうなると二人で話す術は校外にはなく、大学での限られた時間のみでした。

日本の家電メーカーの担当者と食事

 私たちは海外に行く夢を分かち合い計画を立て始めました。そうすれば自由も選択肢も広がるはずです。問題はいつ、どこへ、どうやっていくかです。解決には、共にいる時間とコミュニケーションが不可欠でしたが、大学内でも数分と話すことができない環境で計画を立てるには不十分でした。そこで私たちは手書きの手紙を交換することにしました。

 次なる段階、そのステップはとても高いものでした。大学入学から6カ月しか経っていなかった私たちにとって、両親から留学の許可を取り付けるのは至難の技です。すでに大学での授業が始まっているのに、海外でまたゼロからやり直すなんて、利口な者がすることではありません。特にビニシュのような女学生にとっては、さらに高いハードルだったに違いありません。