日本経済新聞 関連サイト

OK
skill up-自己成長

内藤裕紀・ドリコム社長が語る(下)京大中退して起業に専念 海城同期がドリコムに集う

内藤裕紀・ドリコム社長が語る(下) 京大中退して起業に専念 海城同期がドリコムに集う

「『学年1位からビリに転落』 内藤裕紀・ドリコム社長が語る(上)」から読む

 スマートフォン向けゲームを手掛けるドリコムの内藤裕紀社長(39)が振り返る、私立海城高校(東京都新宿区)時代の思い出。在学中は、勉強そっちのけで遊びやバイトばかりしていた問題児だったという内藤氏。だが、卒業して十数年がたった頃、その母校から突然、講演を依頼された。久しぶりに訪れた母校に内藤氏は、大きな変化を感じとったという。

 高校3年になると、さすがに受験モードになった。

 日頃から一生懸命勉強している生徒もそうでない生徒も、高校3年になると受験勉強に力を入れ始めました。どこの大学を受けるだとか、将来は何になりたいだとか、キャリアの話も教室の中で飛び交うようになります。クラスメートが東京大学に入って官僚になりたいと話しているのを聞いて、それの何が面白いのかなあ、などと心の中で呟きながら、私も自分のキャリアについて何となく考え始めました。

 そうした折、父親が経済紙をとり始めました。勉強に興味を示さなかった私に、何か興味の持てそうなものを自分で見つけるようにという私へのメッセージだったようです。

ドリコムの内藤裕紀社長

 それから毎朝、学校に行く前に新聞を読む生活が始まりました。ある日、新聞社主催のシンポジウムの告知記事を見て興味を持ち、学校を休んで学ランを着たままシンポジウムに参加。細かい中身は忘れましたが、ベンチャー企業の社長の話がとても印象に残ったことを覚えています。その時初めて、自分で会社を作って事業をするという働き方があるんだということを知り、自分にはこういう働き方のほうが向いているかもしれないと思いました。

 そこで大学選びも、自分で何か新しいサービスを生みだしたいなら、東大ではなくノーベル賞受賞者を何人も輩出している京都大学だろう、ビジネスをやるなら経済学部に進んだほうがいいだろうと考え、京大の経済学部に入る目標を掲げました。

 しかし、すでに高校3年の秋。いくら頑張って勉強しても、偏差値30ちょっとの生徒が、そんな短期間で京大の合格基準に達するのは逆立ちしても無理でした。京大どころか、10校ぐらい受験して、ことごとく不合格。途中からは、合格発表の結果を見に行くことすらしませんでした。

 一浪して京大経済学部に合格した。

 父親からは予備校のお金は出さないと言われたので、バイトして授業料を稼ぎ、駿台予備校に通いました。ところが、新しい友達ができ、勉強そっちのけで友達と遊び呆ける日々。夏の終わりごろから、さすがにこれではまずいと危機感を抱き、心を入れ替えて猛勉強を始めました。

「海城の生徒はみんな目線が上を向いていた。負けたくないという気持ちが最後の頑張りを支えた」と話す

 それからの約5カ月間はもう死に物狂い。毎日、その日の勉強スケジュールを分刻みで立て、朝起きてから夜寝るまでずっと勉強。終わらなかったら、睡眠時間を削ってでも終わらせる。そんな生活を続けたら、入試までに5キロ痩せました。

 大変だったのは、高校時代まったく勉強しなかったツケが回って、大学受験のための勉強の内容がさっぱり理解できなかったことです。そこで最初の2カ月間は、中学で勉強したことの復習に費やすことにしました。そして、その次の2カ月間を高校でやる内容の理解に当て、最後の1カ月間で京大の過去問を解くことに集中。こうしたやり方で勉強を続けたら、偏差値が毎月10ぐらいずつ上がり、12月ごろには京大の合格レベルに十分に達していました。

 私のような落ちこぼれでも最終的に京大に合格できたのは、実は、高校の環境が大きいと思っています。海城の生徒はみんな、常に目線が上を向いていました。言い換えれば、目指す目標が高かった。そんな同級生に自分も負けたくないという気持ちが心のどこかにあり、それが最後の最後に頑張ることができた理由だと思います。普通の進学校に行っていたら、適当なところで妥協し、違う結果になっていたでしょう。その意味では、海城に感謝です。

 京大在学中の2001年にドリコムを設立。その後、京大を中退して事業に専念し、06年、27歳の時に東証マザーズに上場した。

 設立当初はブログサービスなどインターネットサービスの提供が中心でしたが、現在はスマートフォン向けのソーシャルゲーム事業が主力となり、おかげさまでオフィスがすぐに手狭になるほど、会社は急成長しています。

 8月には、バンダイナムコエンターテインメントと共同で、スマートフォン対応のブラウザーゲームを運営する会社「BXD」を立ち上げました。実は、それにかかわった当社の新規事業担当が、海城時代の遊び仲間です。

 彼は東大を出て大手外資系コンサルティング会社に就職し、ベンチャー企業を経て、5年前ぐらいにドリコムに加わりました。一緒に飲んだ時に次の人生どうしようかなと話していたので、だったらうちで一緒にやらないかと私が誘ったのです。

 偶然ですが、BXDの監査役の一人も海城の同期で、しかも、私が家出した時に泊めてもらった間柄。彼は一橋大学に進み、別の大手外資系コンサルティング会社を経てバンダイナムコに入りました。二人とも、まさか一緒に仕事をすることになるとは夢にも思いませんでしたが、これも、海城の同窓生が高い目線でキャリアを歩んでいるからこそ、どこかでつながることができたのだと思います。

 数年前、海城の学園祭に呼ばれ、キャリアについて講演した。

 打診された時もちょっとびっくりしましたが、さらに驚いたのは、教頭先生らと事前の打ち合わせをした時です。学園祭は、子供を海城に入れようか迷っている父兄も大勢来るので、本来、学校側としては、学校にとってネガティブな内容の話はしてほしくないはず。ところが、私が、アルバイトの話や家出の話もしてもいいか聞いたら、全然構わないとの返事でした。

 この時、今の海城はもはや昔の海城ではないなと感じました。私が在籍していた頃の海城は、成績表を張り出したり内部進学組と高校受験組をいきなり一緒のクラスにしたりして、生徒の競争意識をあおり、その結果、全国有数の進学校としての実績を毎年、残してきました。しかし、同時に、生徒を偏差値でがんじがらめにする結果、私のように成績の悪い生徒は学校での居場所がない、アウトローは受け入れてもらえない、そんな雰囲気があったのも事実です。

 それが今は、生徒の多様性を認め、生徒の自発的なチャレンジをたたえる文化に変わってきた。母校を訪れた時にそれを強く実感しました。もしそうでなければ、問題児だった私が講師として呼ばれるはずがありません。

 学園祭の講演では、在学中の私の問題児ぶりを暴露した上で、こんな話をしました。親は子供のためを思って人生のレールを敷きたがるが、仮にそのレールを外れても、子供にはいろいろな未来がある。レールから外れたことを責めたり嘆いたりするのではなく、子供を温かく見守り、背中を押してやってほしい、と。子を持つ親の本音でもありました。

 1時間ぐらいの講演でしたが、ふと気が付くと、教頭先生がボロボロと涙を流していました。お母さんたちもあちこちで泣いていました。ここは演歌歌手のコンサート会場かと思いました(笑)。でも、みんな子育ての中で悩みを抱えているから、共感してくださったのかなって。

 人って、正解は常に一つしかなく、正解以外はすべてダメみたいな感覚を持ちがちですが、私自身の人生を振り返って思うのは、人生って人それぞれいろんな道があるということです。途中、道を外れることもあるかもしれないけれど、私みたいな人もいるので、「レールの外にこそ未来はある」と伝えたいです。
(ライター 猪瀬聖)[NIKKEI STYLE 2017年10月30日付]

「日経College Cafe」のお勧め記事はこちら>>