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維新のリーダー、西郷さん 2度の「左遷」で覚醒

維新のリーダー、西郷さん 2度の「左遷」で覚醒
東京・上野にある西郷隆盛の銅像

 「敬天愛人」を座右の銘にした明治維新の立役者、西郷隆盛(1828~77)は日本人に最も愛されてきた人物のひとりだろう。NHKの大河ドラマ「西郷どん」で改めて注目を集めているが、卓越した決断力と行動力、無私・無欲の性格で、近代日本の扉を開いた。稲盛和夫氏(京セラ名誉会長)など、現代の経済人にも少なからぬ影響を及ぼした。実は2度も遠島処分を受けるなど落差の激しい人生だった。「左遷」をバネに復活していった西郷さんの人間力を探ってみた。

名君、斉彬が西郷を抜てき

 薩摩藩の下級武士だった西郷を登用したのは名君、島津斉彬(1809~58)だ。開明的で聡明(そうめい)な人物だった。「西郷隆盛」(ミネルヴァ書房)を著した家近良樹・大阪経済大客員教授は「薩摩はアジア情勢などいち早く把握していた」と指摘する。

 斉彬はまず反射炉・溶鉱炉の建設や洋式造船などの殖産事業をおこして藩内の近代化を推進。さらに「外様大名のハンディを乗り越えて幕政・国政に参加していく意欲も持っていたようだ」と「西郷(せご)どんの真実」(日本経済新聞出版社)の著者・安藤優一郎氏は推測している。

 薩摩藩の太守として身軽に動けない自分に代わって情報収集、交渉する「御庭役方」というポストを新設し、1854年(安政元年)に西郷を抜てきした。いわば大統領や首相の補佐官のような役職で、身分は低いがトップと直結しているので藩内外への影響力は強い。西郷は「誠忠組」と呼ぶ下級藩士グループのリーダーで、農政に関する意見書を提出したことが斉彬の目に止まったとされている。

マクロ経済にも関心

 斉彬は西郷を4回面接したという。西郷は上役からの評判が高くなく、「郡方書役助」という年貢収集の軽職に10年も据え置かれていた。実家は貧しく、厳しい生活を強いられていた。しかし「逆に藩経済の現場を知り尽くして実務能力に長じていた」と安藤氏は分析している。

 御庭役方としては水戸藩、福井藩などとの連携から篤姫の大奥こし入れ、一橋慶喜(後の15代将軍、徳川慶喜)の擁立運動などを重要な政策を担当しキャリアを積んだ。斉彬自身からの薫陶を受けたことも大きかったようだ。斉彬は西郷に意見を聞くと「まだそのくらいか」と返してさらに深く考えることを促したという。家近教授は「西郷が当時流行していた攘夷(じょうい)一辺倒の考えから脱却し物事を多面的にみるようになったのは斉彬の影響が大きい」という。

 斉彬が抱いた地球規模で日本の行く末を見据えた開国思想を受け継いだという。西郷自身は商人肌の武士を私欲を持つとして人一倍嫌った。しかし、経済・農政官僚としてキャリアをスタートさせたこともあってマクロ経済には関心を持ち続けたようだ。「深謀遠慮な斉彬と濃厚な接触を持ったことで西郷の器も社会観、世界観も大きくなった」(家近教授)

人の好き嫌いが激しい性格

鹿児島市の西郷隆盛の銅像、今も地元での人気は抜群だ

 その一方で西郷は対人関係に潔癖症で、好き嫌いの激しい性格だったという。手控え帳には出会った人物を「有志、正、人傑、奸、奸党、奸物」と分類して批評。理詰めな上、直言癖もあり、敵味方をはっきり区別しないではいられなかった。ただ「西郷は目下の士卒との苦難の共有を喜んだため、感激した部下には慕われた。人望があった」と安藤氏は指摘している。

 家近教授は西郷と接したことのある関係者が共通して指摘する特性は、(1)決断力、実行力、勇気(2)学識もそこそこあり、カンがよい(3)無欲(4)情感豊かで気配りを欠かさない(5)無口(6)青年たちにとって一身をなげうってもよいと思わせる魅力――を挙げている。

 主君の斉彬は、西郷を非難する家臣に「称賛されるものが必ず役に立つわけではない」とかばった。さらに盟友の福井藩主・松平春嶽に「西郷は薩摩の宝だが、自分にしか使いこなせない」と言ったという。

 斉彬の言葉は核心を突いていたのだろう。安政の大獄直前の1858年に斉彬が急死すると、幕府からの追及を恐れた薩摩藩当局は西郷を奄美大島へ遠島処分にしてしまう。罪人扱いではなく、島内での結婚も許されたが、「西郷本人は非常に不本意に感じていた」(家近教授)という。この時期の西郷は周囲に当たったり、体調不良やストレス太りに悩まされたりする一方、強い復帰への願望を綴(つづ)った書簡などを薩摩藩の同僚に送っていた。実際に帰藩できたのは約3年後の1862年だ。

久光とは対立

 しかし、斉彬の死後に藩の最高権力者となった弟の島津久光と、最初から正面衝突してしまった。久光は斉彬の遺志を継いで、幕府に改革を促すため兵力を率いて江戸へ向かおうと計画していた。ところが西郷は「久光公は地ゴロ(田舎者の意)で成功はおぼつかない」と直言、不興をかってしまう。これで2度目の左遷となった。

 復帰からわずか5カ月で再び遠島処分となった。今度の沖永良部島は死罪に次ぐ重罪者の流刑地で、罪人として座敷牢(ろう)の中で厳しい生活を送らざるを得なくなった。高温湿潤で狭い牢内での毎日はさぞつらかっただろう。

 ここで西郷は大きく変身したと家近教授は分析する。経験したことのない艱難(かんなん)辛苦のなか、自分の半生を振り返る時間的余裕もできた。思慮深く、志操堅固な品性を育むことで「豊かな人間力を有する大人物へ飛躍を遂げることができた」(家近教授)。「死」を平然と受け入れる独特の死生観もこの時期に得たようだ。漢詩をつくり、島の少年らに論語や孔子を教えたという。

西郷の盟友だった大久保利通

 大久保利通ら誠忠組のメンバーらの復帰運動が実り、1864年(元治元年)に2度目の復帰を果たした。大久保らは西郷と久光が再び衝突する可能性を恐れたが、西郷は思慮深く行動し、久光の逆鱗(げきりん)に触れるような言動は慎重に避けた。

 目標を果たすためには、好き嫌いなど個人的な感情を抑えなくてはいけない。この時、西郷は自らがリーダーになり、社会を変えようと自覚したのかもしれない。

 復帰から約半年間で平武士の「徒目付」から家老に次ぐ「側役」にまでスピード出世し、京都を拠点に薩摩藩の政治、軍事上のリーダーとなった。久光は西郷の本心を疑って見張り役を送ったが、西郷は表面上は従いつつ、実際は自分の方針を巧みに進めていくようになったという。

幕府軍に勝利

 西郷は「禁門の変」で薩摩軍を率いて長州軍に圧勝し、その後も第1次長州征伐軍の参謀として中央政局を動かす主役のひとりに躍り出た。安藤氏はこの時期の勝海舟・幕府海軍総督との出会いがきわめて重要だったと指摘する。「英仏など列強が日本を狙いかねない中、幕府は当事者能力を失っているので雄藩連合で乗り切るべきだと勝が示唆したことが、西郷の方針を決めさせた」(安藤氏)

 維新の行方を決定付けた鳥羽・伏見の戦いは実質的に薩摩軍と約4倍の幕府軍の戦いだった。西郷は敗戦に備えて明治天皇を西国へ移す計画も準備していたという。しかし、幕府軍は統一が取れずバラバラに戦って初戦に敗れた。

 慶喜はささいな政治状況の変化にも鋭敏に対応できうる能力の持ち主だが、この場合は過敏に反応しすぎて単独で大坂城を脱出したのが決定的な敗因になった。安藤氏は「西郷は慶喜によって味方の切り崩しにあい政治的に圧倒的な不利な局面を何度も経験した。しかし倒幕方針の基本は変えなかった」としている。それが最後に勝利を呼び込んだといえそうだ。

稲盛氏も西郷に学ぶ

 鹿児島出身で京セラ名誉会長の稲盛氏も社是に「敬天愛人」を掲げる。稲盛氏は、「心は西郷、才覚は大久保ですわ。若い頃には才覚があり、頭がよくて戦略や戦術を組めることが大事だと思うでしょうけど、そうではない。まず心を整え、その上で才覚を発揮しないと、仕事なんて何もうまくいきません」と語る。故郷の英傑、西郷と大久保から多くを学び、稀代の経営者と呼ばれるようになったという。
(松本治人)[NIKKEI STYLE 2018年1月27日付]

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