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及川美紀・ポーラ取締役が語る(上)バブル絶頂期もボディコンは無縁 自立心育てた東女

及川美紀・ポーラ取締役が語る(上) バブル絶頂期もボディコンは無縁 自立心育てた東女
ポーラの及川美紀取締役執行役員

 「東女(とんじょ)」の愛称で知られる東京女子大学(東京・杉並)。少子化の逆風のなか、堅実な就職実績で高い人気を維持している。ポーラの及川美紀取締役執行役員(49)も卒業生の1人だ。女子大ならではのカリキュラムや校風が、卒業後のキャリアにも影響を与えたと話す及川氏。学生時代を振り返りながら、東女の強みを語ってもらった。

 宮城県石巻市で育った。

 父はサラリーマンでしたが、私が小学3年の時に、会社を退職し、故郷の宮城県石巻市で商売を始めました。

 父の商売はあまりうまく行かず、家計に余裕がなかったので、予備校の夏期講習や冬期講習を受けるためのお金は、家庭教師や皿洗いのアルバイトをして自分で貯めました。

 私の高校からは、当時、年に4~5人は国立大に入るものの大学進学者は少なく、就職する生徒も大勢いました。私も、進路面談の時に大学に行きたいと言ったら、先生に笑われました。もっとも、その時の私はテストで学年230人中203番となるなど、落ちこぼれ状態。先生の反応も無理からぬところでした。でも、そこから一念発起して必死に勉強したら、大学進学を狙えるところまで成績は上がりました。

 大学に進学しようと思ったのは、周りの大人を見て、将来、女性が安定した職を得て経済的に自立するには、大学への進学が欠かせないと思ったからです。家が経済的に苦しかったため一層そう考えたのかもしれません。

 東女を選んだのは、東京で就職しようと考えたからです。両親の苦労する様子を見て、田舎で稼ぐことの大変さを肌で感じていました。

 お金のことを考えれば、大学も、授業料の安い国立のほうがいいという話になりましたが、数学がからきしダメで、受験科目に数学がある国立大は最初から諦めていました。親は私を東京の大学に行かせることを渋っていましたが、親自身の憧れもあったのか、東女なら行ってもいいと許してくれました。東女は地方出身者用の寮があり、生活費がそれほどかからないことも決め手でした。大学には奨学金をもらって通いました。

「女子大生ブームのころだったが、東女は、あまり化粧っけもなく、服装も地味で、真面目に授業に出ているタイプが多かった」と振り返る

 実は高校も女子校です。地元の高校は基本的に男女別々で、そもそも選択の余地がありませんでした。ですが、いざ入ってみると、居心地のよさを感じました。

 中学時代は、女子は何をするにも、男子の目を気にして一歩引くようなところがありましたが、女子校ではそれはありません。逆に、力仕事でも何でも女子だけでやらなくてはならず、自然とリーダーシップや自立心が芽生えました。美術部に入っていたのですが、学校近くの山の上で絵の展覧会を開いた時には、絵を積んだリヤカーを女子5人で押して坂道を上ったこともありました。力仕事ですら女性の仕事でした。「何でもできる」ことを自覚できる女子校の良さがわかっていたので、女子大を選択したのだと思います。

 入学は1987年。男女雇用機会均等法が施行された年だった。

 入学して、緑あふれるキャンパス、厳かに立つ白い校舎、伝統を伝える校風の中で学べることに喜びを感じました。図書館に刻まれた「QUAECUNQUE SUNT VERA」(凡そ真なること)の言葉を毎日通学途中でみながら、女性の自立に対する大学の思想を身近に感じていました。

 よく覚えているのは、いろいろな先生が、授業中にひんぱんに均等法の話をしていたことです。均等法と無関係の授業でも突然、均等法の話になったりします。これからは女性も男性と同等に評価される時代になるといった話をよく聞かされました。均等法一期生として社会に出た先輩が、講演に来たこともありました。

 正直、女子高育ちで、一般社会の男女の立場の違いを感じていなかった私には、均等法の話はピンと来ないところもありました。でも今にして思えば、女性の先生方は均等法の影も形もないころから自身も家庭をもちながら男性社会の中でキャリアを確立してきた人たちばかりなので、均等法への思いもひとしおだったのだと思います。

 当時は女子大生ブームで、女子大生はワンレン・ボディコンのような派手なイメージをもたれていましたが、東女の学生は、あまり化粧っけもなく、服装も地味で、分厚い教科書とノートを抱えて真面目に授業に出ているタイプが多かったようです。学生たちは自分の考えをしっかりともちながら、独立した個人として他人を尊重していました。物事に主体的に取り組み自分の意思で方向性を決めるという校風は私にはあっていたようです。

 英米文学科に籍を置いた。

 英米文学を専攻したのは、職業の選択肢として高校の英語の先生も考えていたからです。結局、先生にはなりませんでしたが、英米文学を専攻して正解だったと思っています。

東京都杉並区にある東京女子大学

 授業は女性文学に関する授業を集中的にとりました。女性の書いた文学作品の中には、女性の自立に関する話がたくさん出てきます。例えば、米国の公民権運動の中で黒人女性が自立していく話や、良妻賢母がビジネスウーマンに転身する話、男性に捨てられた女性が自我に目覚める話など、そもそも女性文学の主要なテーマは女性の自立にあります。

 一番印象に残っているのは、4年生の時にとったカナダ文学のゼミ。先生は、カナダ人の年配の女性で、いつも素敵なスーツを着て颯爽(さっそう)としており、その先生に憧れてゼミに入ったようなものです。

 ゼミでは、カナダの文学作品を1年かけて原書で読みました。それで出あったのが、日系カナダ人女性のジョイ・コガワが書いた自伝的小説「OBASAN」(邦題「失われた祖国)」です。

 第二次世界大戦前にカナダに移住した日系移民の波乱万丈の人生を通し、戦争や人種差別といった逆境の中でも、じっと耐えて生きて行く女性の強さを描いた作品で、余りにも感動し、翻訳本も買って読みました。

 その本は今も自宅の本棚に置いてあり、1年に1回は読み返します。私にとってバイブルのような本です。

 振り返ってみれば、授業で学んだ数多くの女性文学作品に登場する女性たち、さらにはゼミの先生を含めた東女の多くの先生は、現代の働く女性のロールモデルだったような気がします。当時はそれをはっきりと意識していたわけではありませんが、彼女たちの生き方は、今の私に間違いなく大きな影響を与えています。
(ライター 猪瀬聖)[NIKKEI STYLE 2018年1月8日付]

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