日本経済新聞 関連サイト

OK
skill up-自己成長

ボランティアの架け橋(8)3.11東北に思いを寄せて~僕だからこそできること

ボランティアの架け橋(8) 3.11東北に思いを寄せて~僕だからこそできること
authored by 青山学院大学ボランティアセンター

 この記事が出る日は2018年3月9日。間もなく2011年3月11日に起こった東日本大震災から7年です。この7年という時間。そしてこれからの時間。僕にとっては決して色あせることはないあの日に触れながら、今回で僕の連載は一旦終了となります。お付き合いいただいた皆さんありがとうございました。最後までぜひ読んでいただけると幸いです。

2011年3月11日

宮城県塩竈市・浦戸諸島へ向かう航路にて

 当時、僕は中学3年生でした。この日は卒業式の前日で早めの帰宅。テーブルの椅子に腰かけ、中学生活を終える感慨に浸りつつ卒業アルバムを眺めていると、突然の激しい揺れ。2~3分は続いたと記憶していますが、これまでに経験したことのないあまりにも大きな揺れに、身動き一つとれませんでした。

 やっと揺れが収まると、自宅マンションの下に住民の方々が集まり始めていました。ただごとではない......。何か異様な空気感の中、僕は中学校へ避難しました。数時間前とは違う、"被災者"となって。

 中学校の体育館に避難すると、さっきまで一緒にいた友達たちが。お互いの安否を確認し合いながら、ここから始まる非日常な時間を想像せずにはいられませんでした。地震によって水道・電気・ガスのライフラインは寸断されました。これではテレビもつきませんし携帯もサーバーがパンク状態です。つまり、被害の全容が掴めないのです。

 中学で作った手動発電のラジオを手に、そこから流れてくる情報に耳を傾け続けるしかありませんでした。時期は3月。外は雪が降りしきっていました。そんな気温も厳しい中で夜を迎え、学校の体育館で毛布にくるまりながら過ごしていると、電気が復旧しました(記憶が曖昧な部分もあるので、次の日だったかもしれません)。電気が点いたその瞬間に湧き上がった歓声は今でも鮮明に覚えています。

宮城県石巻市に飾られているモニュメント。震災直後の石巻での活動がこのような形で残されているのは、僕たちにとっても誇らしいことです

 次の日の朝、新聞の1面を見て愕然としました。そこには地震の影響で激しく燃える仙台港の石油コンビナートの写真とともに、大きく「宮城 震度7 大津波」の文字。続けて「M8.8 国内最大 死者・不明者多数」と並んでいました。先述した通り、ライフラインが寸断された状態ではテレビなどの情報は入ってきません。初めて目にし、感じる被害の大きさに言葉を失いました。

あの日を境に何が変わったのか

 避難所で3、4日ほどを過ごし、ひとまず自宅に戻りました。その間も電気は通ったものの、水道とガスは断絶されたまま。日常とは程遠い生活を余儀なくされました。街中に行っても9割のお店がシャッターを下ろしており、やっと営業しているお店やスーパーを見つけたと思えばそこには長蛇の列。食べ物もろくに手に入らない状況下で1週間は過ごしていた気がします。

 一番辛かったのはガスだったかもしれません。ガスの復旧が一番時間がかかり、2カ月ほどの時間は要したでしょうか。その間は温かいシャワーも浴びることはできないので、身体を洗うのは1日おきで、電気ポットであたためたお湯を少しづつ身体にかけながら髪や全身を洗っていました。今考えると本当に制限しかないような厳しい生活でしたが、そんな中でも避難所の誘導のボランティアを行ったり、学校へ手伝いに行ったりはしていました。

浦戸諸島・野々島での風景。いつもパワーをもらえますし、後世や多くの人に伝えていきたいものです

 そんな非日常な毎日を過ごす中で自然と感じていたこと、それは社会のインフラも含めて何不自由ない生活というのが当たり前だと思ってしまっているということです。日本で生まれ生活していると、つい、それが当たり前の環境だと感じがちですが、僕はこの日をきっかけに味わった厳しい毎日の中から"やさしさ"が生まれたと実感しています。

 厳しさから優しさとは一見、想像し難いかもしれませんが、地域で協力して乗り越える姿勢や限りあるリソースを分け合う姿、他者に思いを馳せ、苦しい場面でも協力し、時には涙を流し抱き合うシーン......。この時ほど社会の中で様々な人と関わり合いながら生かされているのだと感じた瞬間はありません。この辛すぎる出来事が、逆に多くの人を強く優しくしたのではないでしょうか。

この時代に生きる若者として

 今でも忘れられないシーンがもう一つあります。約1カ月遅れて実施された高校の入学式。僕の進学した高校は、宮城県の中でも様々な地域から通学してくる学生がいました。その入学式の冒頭、大きな被害に遭われた多くの方々へ黙祷を捧げました。そんな中、式が進む中で耳を疑うアナウンスが。

 「皆さんと一緒に入学してくるはずだった学生も一人、犠牲となりました」

 うまく呑み込むことができず、まさに言葉通り頭が真っ白になりました。

 僕にはこの時代に生きる若者として責任があると感じています。大学で取り組み、この連載で書いてきた塩竈市での活動もそうですが、普段から考え、情報に触れ続け、発信し続け、そして行動に起こしていってこそその責任を果たしていくことに繋がるはずです。

2016年の塩竈プロジェクト2陣。気に入っている写真の一枚です

 僕が生まれ育ってきた東北、1000年に1度とも言われるあの出来事。人間は忘れなければ生きていけない生き物ですが、時に絶対に忘れてはいけない出来事もある。あの震災で何も感じなかった東北人はいないと思います。この時代に生かされ、これから社会に出ていく自分の立場を改めて考え、生きていきたいと感じています。

これから

 やはり切り離せない縁なのか。4月から社会に出る僕ですが、配属地が仙台になりました。仕事では東北・仙台の方々のスキルアップやキャリアをサポートしていきます。この会社に入社を決めてから、社長や幹部の方と食事をさせていただく機会がありました。ある社員の方に自分が仙台出身であることを伝えると、あるエピソードを教えてくれました。

 僕が行く会社は店舗型のスクール事業のような形をとっているのですが、2011年のあの震災で、東北・仙台における事業の衰退を覚悟したそうです(つまり通ってくださる人数の減少)。でも結果は逆に多くの方が自身のキャリアアップやスキルアップを目指して入会してきたそうです。先ほど、「この辛すぎる出来事が、逆に多くの人を強く優しくしたのではないか」と書きましたが、まさにあれだけ大変なことがあっても常に前を向き、歩を進める東北人の強さを感じるエピソードでした。

 また、個人的にも取り組みたいと思っていることがあります。あえてここには書きませんが(笑)、自分が生まれ育ち、大学でも活動の拠点とした東北に帰る以上、僕にはやりたいこと、やるべきこと、やれることがあるはずです(前回の記事をぜひ!笑)。この境遇のもと、そしてこの時代を生きる若者として、自分への期待も込めながらまた頑張っていきたいと思っています。

浦戸諸島・野々島のお祭りに参加した際の一枚。地域の皆さんの温かさや強さを感じられる機会です(中央が筆者)

 さて、ここまで読んできてくださった皆さんありがとうございました。ふとしたご縁から連載のお話をいただき、自分の取り組んできたことを振り返るとともに少しでも多くの方にこの経験を伝えられればと、執筆を続けてきました。当初はこんなにも多くの人に見られているような、本当に素晴らしいメディアに連載を持たせていただいたことに恐縮する気持ちもありましたが、多くの方に読んでいただくことができました。関係者の皆様に感謝の気持ちを伝えずにはいられません。また一つ貴重な経験をさせていただきました。

 末筆になりますが、まだまだ未熟な一人の力で何かが大きく変わるとは思っていないながらも、この連載を読んでくださった方々に良い影響を与えられ、具体的なアクションの背中を押せていたならこの上なく幸いです。僕のこれまでの記事での発信は一方的なものではなく、読者の皆さんとの双方向性を持たせたインタラクションなコミュニケーションにもしていきたいので、SNS等でもお気軽にメッセージいただけるととても嬉しいです。(Twitter:@amktq1253、Facebook:今野友彰、Instagram:tomoaki.konno)ぜひ、いろいろと情報・意見交換や交流をしていきましょう。

 それではまた!!
(おわり)