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須田将啓・エニグモ社長が語る(下)社訓は「やんちゃであれ」 エニグモの源流は水戸一高

須田将啓・エニグモ社長が語る(下) 社訓は「やんちゃであれ」 エニグモの源流は水戸一高
須田将啓・エニグモ社長

 海外ファッション通販サイト「BUYMA(バイマ)」を運営するエニグモの須田将啓社長(43)が語る、母校の茨城県立水戸第一高校(水戸一高、水戸市)の思い出。高校時代は停学処分も受けるほどやんちゃだったが、勉強でも非凡な才能を発揮。後の起業へとつながるレールを敷いた。

 高3のとき、全国模試の数学で全国1位をとった。

 子供のころから算数や数学が得意科目でしたが、それは、けがの功名もありました。

 小学2年のとき、大好物の魚の食べ過ぎによる塩分の過剰摂取で腎臓を壊し、約2カ月間、入院生活を余儀なくされたことがありました。その間、毎日、暇つぶしのために算数のドリルを解いていました。すると、学校に戻ったときに算数がものすごくできるようになっていたのです。先生から「算数博士」と呼ばれるようなり、それがうれしくてますます算数好きに。まさに、好きこそものの上手なれ、です。それ以来、算数は私のアイデンティティーの一部となり、算数だけは誰にも負けたくないと思うようになりました。

 中学では一段と勉強に身が入りました。振り返ってみると、人生の中で一番勉強したのは、中学時代でした。土日は14時間ぐらい自発的に勉強していました。数学は学校の授業では物足りなさを感じ、参考書を買ってきて大学入試レベルの数学を解いていました。

 水戸一高に入ってからは、好きだった数学と物理は特に力を入れました。数学の試験は学年で1位になったことも何回かありましたし、高3のときには、全国模試の数学で全国1位をとったこともあります。腕試しに数学オリンピックにも応募しましたが、体育館での飲酒事件で停学処分を受けていた間に予選会が開かれたため、出場できませんでした。

 勉強では理数系が好きでした。ほかに、いろいろな企画を考えて仲間と何かをすることも昔から好きでした。当時、民放の深夜番組に、素人が企画を持ち込んでカメラの前でプレゼンテーションするという番組があり、書類選考に通って東京まで面接に行ったこともあります。結局、2次選考で落とされましたが、高校生で通過したのは自分一人と褒められて、自信になりました。

 友達と遊ぶときも、新しい遊びを企画したりやろうと言い出したりするのは、自分が多かったと思います。水戸一高時代は、特に仲良しの遊び仲間が私も含めて5人いたのですが、その中ではリーダー的存在でした。ちなみに、まったくの偶然ですが、血液型が全員B型で、自分たちのことを「5B(ゴビー)」と呼んでいました。

 大学は慶応義塾大学理工学部に進んだ。

「数学と物理は得意で、国語が大の苦手だった」と振り返る

 自由すぎたせいか高校3年になっても、相変わらず麻雀をしたりして遊んでいるクラスメートも結構いました。私自身も、それなりに受験勉強はしていましたが、がむしゃらにやったという記憶はありません。中学時代の遺産で受験した感覚でした。昼間は友達と学校の図書館で勉強し、夕方になるとそのままみんなでどこかに遊びに行くという生活パターンでした。

 最初は京都大学の理系学部への進学を考えていました。受験科目に国語のない大学の中では京大がナンバーワンだったからです。数学と物理は得意でしたが、国語は大の苦手で、最初から捨てていました。高3のときの模試の成績は国語がないおかげで京大の合格ラインに達しており、受験する方向で考えていました。

 しかし、東京に進学する友人が多かったため、最終的に東京の大学に行こうと決めました。国語のない私立が本命ですが、一応、国立も受けようと周りには内緒で東京大学を記念受験しました。内緒のはずだったのに、テレビのニュース番組のエンディングに自分が使われてしまい、東大を受験したのが全国放送されてしまいました。結局東大には落ちて、本命の慶応に進みました。

 慶応では、20年続いた企画サークルの代表にもなりました。慶応の学園祭である三田祭で唯一タレントを呼ぶことが認められていたほど、運営体制がしっかりとしたサークルで、毎年、大物歌手やお笑いタレントを呼んで大掛かりなイベントを開いていました。

 本業の学問では、コンピューターサイエンスに関心を持ち、入るのが難しいといわれていた所真理雄先生の研究室に運よく入ることができました。運よくというのは、難関との評判が立ち過ぎて倍率が1倍ぐらいだったからです。もう一人志望者がいたら、私は落とされていたかもしれません。

 所先生は、日本のインターネットの父といわれる村井純先生と同じ研究室の先輩で、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の設立者でもあります。私は所先生に師事し、ソニーCSLでアルバイトをしながら、大学院で研究を続けた後、博報堂に入社しました。博報堂ではマーケティングプランナーとして4年間仕事をしました。

 現在のエニグモの事業には、コンピューターとマーケティングという2つのバッググランドが生かされており、それは水戸一高時代から理数系と企画が好きだった自分がたどり着く必然的なゴールだった気がします。その意味では、高校時代に、エニグモを立ち上げるためのレールができあがっていたのだと思います。

 2004年にエニグモを設立。運営するバイマは、海外の最新ブランド品を売りたい海外在住者とそれを買いたい国内消費者を仲介するユニークなビジネスモデルがヒットし、会員数が460万人まで膨らんだ。

 エニグモには「エニグモ7」と呼ぶ7カ条の経営理念がありますが、その第1条が「やんちゃであれ!」。これは、共同創業した博報堂の同僚と私の共通した価値観でした。私は、学生時代もそうでしたが、社会人になってからも、新人のくせにこっそり車通勤したり、酔っぱらってスーツのまま運河に飛び込んだり、会社のパソコンを改造して怒られるなど、やんちゃな面がありました。

 起業した後も、サハラ砂漠やアマゾンのジャングルで250キロメートルのマラソンをしたり、南極でトライアスロンをしたり、本質的な性格は変わってないように思います。法律は遵守する、主義に反したことはしないという一線は守りつつ、困難なことや新しいことにチャレンジしていくベンチャーにはやんちゃな精神も必要だと思います。

 エニグモを立ち上げてからこれまでほぼ順調に成長してきましたが、今期はやや足踏みした感も正直あります。でも、よい方に解釈すれば、今期は次の段階に向けていろいろと仕込むことができた準備の年だったと考えています。

 バイマほど取り扱うファッションブランドの数が多いサイトは他にありません。世界中にいる個人会員が支えとなっているからで、そこが他社がなかなか真似のできないバイマの強みでもあります。この強みを生かしながら、これからは海外展開にもより力を入れて行く方針です。美容やライフスタイル系の雑貨、インテリアの分野も徐々に拡大していきたい。

 ビジネスなのでうまくいかないこともありますが、何が起きても、驚かない、慌てない、動じないという自信はあります。これも、水戸一高時代に、自由を謳歌しつつも無期停学処分を受けるなどいろいろな経験をして度胸がついたおかげではないかと思っています。
(ライター 猪瀬聖)[NIKKEI STYLE 2018年1月29日付]

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