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池上彰の現代史を歩くJFK 時代動かした大統領の言葉

池上彰の現代史を歩く JFK 時代動かした大統領の言葉
=テレビ東京提供
authored by 池上彰東京工業大学特命教授

 暗殺から半世紀余り、いまなお人々に人気のあるジョン・F・ケネディ米元大統領を取り上げます。東西冷戦下、核戦争を回避し、時代を動かしたのは、ケネディの言葉やリーダーシップでした。現代世界はアメリカ・ファースト(米国第一主義)によって分断され、新たな危機に直面しています。その足跡から危機を乗り越える指導者の役割を学ぶことができるかもしれません。

多くの人々が疑問を抱く暗殺犯

 1963年11月22日、米テキサス州ダラスの旧市街。ケネディが乗った1台のオープンカーが交差点を曲がって速度が落ちたところで、ケネディは銃撃されました。

 暗殺犯として逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、交差点に面した教科書倉庫6階からライフル銃で撃ったとされています。後にオズワルドは警察署からの移送中に銃撃されて死亡。事件の調査委員会は"単独犯行"と結論づけました。

ケネディ大統領が銃撃された現場で解説をする池上彰氏。暗殺犯とされるオズワルドは教科書倉庫に潜んでいた(後方中央、米テキサス州ダラス)=テレビ東京提供

 私がこの現場を訪れた際、道路上には事件現場を示す緑色の大きな×印が複数ありました。付近では、ガイドが観光客相手に当時の事件や犯人像を語っていました。多くの人々が実行犯や暗殺の動機をめぐっていまも疑問を抱いています。その真相は闇の中です。

 ケネディの出身地マサチューセッツ州ボストンも訪ねました。「政治家になってから、週末にお気に入りの座席で一人で食事をしていることも多かったようですね」。ボストン名物の「クラムチャウダー」で有名なレストランの関係者はこう語ってくれました。

 実は若いころは病弱で人見知り。政治家になっても家族が地元有権者との間を取り持ちました。アイルランド移民の流れをくむ父の期待を一身に背負い、押しつぶされそうになっていたのかもしれません。力強い演説とはほど遠い姿が浮かんできました。

 そんなケネディが大統領に就任したのは61年1月。選挙で当選した大統領としては最年少の43歳。在任期間はわずか2年10カ月。

 にもかかわらず人々の記憶に強烈な印象を残したのは、東西冷戦という国際情勢と無縁ではありません。そこには人々を束ね、時代をも動かす言葉の力がありました。

新たな国づくりへのメッセージ

「国が何をしてくれるのかではなく、君たちが国に何ができるか考えよう」

 就任式でケネディは呼びかけました。第2次世界大戦後、アメリカとソ連の対立が核戦争の危機という新たな緊張状態を生みました。国内では激しい人種差別問題にも直面していました。

 人々にはそんな時代の閉塞感を打ち破り、新しい国づくりへの参加を促す力強いメッセージになったのです。

「私もまた一人のベルリン市民である」

 63年6月、西ベルリンを訪れたケネディは演説の最後をドイツ語で締めくくりました。東ドイツ側には、西ベルリンを取り囲むように「ベルリンの壁」が建設されていました。孤立感を深めていた西ベルリン市民を勇気づける演説をした際の一コマです。「自由を愛するベルリン市民」と共にあるというメッセージに人々が熱狂する姿が当時の映像にありました。

 指導者として注目できるのは、自らの言葉で人々に直接語りかける姿勢です。大統領選挙で候補者による初のテレビ討論会を巧みに利用したように、映像の力によって指導者の力強いイメージを伝えることを意識していたようにも思います。

 映像で、指導者としての力を発揮したのが、まさに「キューバ危機」だったといえるでしょう。62年10月、キューバでのミサイル基地建設を中止させるため、ケネディは全米へのテレビ演説を通じて、海上封鎖を発表するなど実力行使も辞さない姿勢を示したのです。

 ケネディの演説後、ソ連によるキューバの「武器」撤去を発表するまでの約1週間。米ソ双方で核を積んだ爆撃機や潜水艦が出動。全面戦争に備えていました。世界の人々は初めて核戦争による人類滅亡の危機を覚悟し、固唾をのんで事態の推移を見守っていたのです。

 後にわかることですが、実際には米ソ首脳による水面下での交渉も続いていました。キューバの基地建設を中止する交換条件として、トルコに配備していたアメリカのミサイルを撤去するというものでした。ケネディはソ連と渡り合い、落としどころを探るしたたかさも持ち合わせていたのです。

ソ連へ核軍縮を呼びかけた

 キューバ危機の体験は、後にアメリカ、イギリス、ソ連による「部分的核実験禁止条約」へとつながります。核軍縮への第一歩と期待されました。ソ連に対して理解を示し、核実験の停止を演説で呼びかけたのはケネディでした。要旨の一部を紹介します。

「私たちが求めている平和とは、アメリカの兵器によって世界に押しつけられる平和ではない」

「私たちは人類破滅の戦略ではなく、平和の戦略に向かって進み続ける」

 きっかけは63年6月、アメリカの大学での演説でした。8月には地下を除いて核実験を禁止する部分的核実験禁止条約が調印されました。ところがその3カ月後、ケネディは暗殺者の凶弾に倒れたのです。

 歴史に「もしも」はあり得ません。ただ、ケネディが生きていたら、東西冷戦はもっと早く終わり、世界のかたちは変わっていたかもしれません。ケネディの死後、核兵器開発競争、戦争や紛争は一段と激しくなっていきました。

 いま世界は、トランプ大統領が掲げる政策「アメリカ・ファースト」が、戦後の国際秩序を壊し、国家や民族を分断しようとしています。イスラエルにあるアメリカ大使館のエルサレム移転やイランとの核合意離脱は、中東地域の緊張を高めています。世界をどこへ導こうとしているのでしょうか。

 歴史に学べば、指導者の大事な役割のひとつは、主張し、互いの違いを認め、平和への道筋をつけることだと考えます。現代のように混沌とした先の見えない時代だからこそ、人々は改めてケネディの言葉とリーダーシップに郷愁を覚えるのではないでしょうか。

取材メモから
(1)人々はケネディのメッセージに言葉の力を感じていた。
(2)ケネディには違いを乗り越え、共存の道を探る指導力があった。
(3)ケネディが暗殺された理由や実行犯についてはいまも謎が多い。

◇    ◇

〈お知らせ〉 コラム「池上彰の現代史を歩く」はテレビ東京系列で放映中の同名番組との連携企画です。ジャーナリストの池上彰氏が、20世紀以降、世界を揺るがしたニュースの舞台などを訪れ、町の表情や人々の暮らしについて取材したこと、歴史や時代背景に関して講義したことを執筆します。

[日本経済新聞朝刊2018年5月21日付、「18歳プラス」面から転載]

※日経電子版に「現代史を歩く」「大岡山通信」「教養講座」を掲載しています。

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