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教科書は街おこし(13)スウェーデンの「北斎展」で感じたふるさとの底力

教科書は街おこし(13) スウェーデンの「北斎展」で感じたふるさとの底力
authored by 久米信行久米繊維工業会長

 このところ、観光の目玉としてオリンピックやワールドカップが語られることは少なくありません。しかし、国別の競争意識をあおる派手なスポーツイベントでたった一度だけ来日する人を増やすより、もっと大切なことがあるのではないでしょうか?そのひとつが、まず自分たちの足もとを見つめる取り組みです。地味で地道な作業ですが、「わが町」の風景や暮らし、そこで育まれた文化や芸術を知って、それを海外に発信してみるのです。今回は、私のふるさとでもある東京・葛飾の生んだ「北斎」をテーマにこの問題を考えてみましょう。

◇ ◇ ◇

 みなさんは、海外で「北斎」について語りかけられたことはありますか?あるいは留学生の友人から、「日本文化」の素晴らしさを聞かされたことはありませんか?

ミレスゴーデン美術館で開催した「北斎ー日本のアイコン」展」のポスター(2018/5/19-6/3開催)

 今年の5月、日本とスウェーデンの外交関係樹立150周年記念行事として、ストックホルムで「北斎」のイベントが開催されました。能楽師 櫻間右陣先生の新作能「北斎」公演と、ミレスゴーデン美術館での「北斎」企画展です。私も、今回のイベントを主催する公益財団法人 鴻臚舎(こうろしゃ)のメンバーとして現地を訪ねましたが、驚くことの連続でした。

 一言で言うなら、「日本文化」や「北斎」への関心があまりにも高くて驚いたのです。会う人会う人「日本に行って好きになった」「いつか日本に行きたい」と熱く語るのでした。

 まず驚いたのは、新作能「北斎」の公演チケットが、瞬く間に売り切れるほどの人気だったことです。有名な紅茶の専門店「ティーセンター オブ ストックホルム」に能楽師の先生たちと訪ねた時、今夜「能」の公演だとお話しした瞬間に、お店のスタッフの目が輝きました。スタッフ同士で顔を見合わせ、何か言葉を交わしたあとで「行きたかったけれどチケットが手に入らなかった」と教えてくれたのです。さらに「北斎展」には、開催直後の週末にご家族で見に行ったそうです。

スウェーデン国王も若者も拍手した「北斎」の能

 公演当日は、地元テレビ局の取材も入るほどの大反響でした。会場は。老若男女問わず多彩な観客でごった返し、デニムを履いた若者までが劇場に集まっていたのです。正直に言えば、私も40代半ばにして先輩に誘われて初めて「能」を見始めました。私に限らず日本人の多くは、何かのきっかけがなければ能楽堂に足を運ぶことはないでしょう。それなのに、この大人気。しかも、日本では着物で正装した老紳士淑女がおごそかに鑑賞するイメージのある「能」ですが、ストックホルムの若者たちは、まるでロックのコンサートにでも行くようなファッションで開演を待っています。

 そして、いざ笛の音が会場に響きわたると、前席の若者たちもおしゃべりをやめて真剣な表情に。舞台上で「だるま」の絵が大きな筆に描かれ、背景に北斎の大波の映像が現れると、まだ見ぬ別世界に心が吸い寄せられていくのがわかります。会場を見渡してみると、それは目の前の若者だけではありません。誰もが、初めて聴く異国の音楽に驚き、独特の語りに圧倒されています。その衝撃は、鬼の面をつけた「北斎」の亡霊が出てくると最高潮に達したのです。

ストックホルム市民文化会館での新作能「北斎」公演後のカーテンコール(2018/5/28)

 最初は、珍しいものを目にした驚きだけだったのかもしれません。しかし、舞台が進むにつれ、能楽師の一挙一動に観客は心奪われていきます。おそらく、目に見える世界の向こうにある何か、短い英語の字幕では表現できない何かを感じ取った人もいるでしょう。1時間半ほどの公演が短すぎる、もっと見たいと感じたお客様もいらっしゃったようです。

 能であれ北斎であれ、日本の文化の奥にある精神性に魅かれるという声も、旅行中によく聞かされました。今回「能」に衝撃を受けた若者たちも、いつか日本を訪ねてくれるかもしれません。

 前夜の興奮も冷めやらぬまま、翌日は世界遺産のドロットニングホルム宮廷劇場で、国王陛下とVIPだけの非公開上演会が開かれました。招待客が席についた後で、カール16世グスタフ国王と王妃が入場すると、全員が起立して拍手でお迎えします。静まり返った会場に、笛と鼓が響きわたると、歴史ある劇場に緊張感が走ります。おそらく多くの人が初めて見る、ゆったりとした動き。ちょうど、私の席から、観劇中の国王の横顔を拝謁することができましたが、その目は誰よりも真剣そのものでした。

 幕間のレセプションでは、北斎ゆかりの小布施市にある桝一市村酒造場が醸した特別な日本酒で乾杯です。そして、国王が終始手に持ち、口にされていたグラスは、北斎のふるさと墨田区の廣田硝子の江戸切子でした。どちらも日本のものづくりを守る先輩経営者からのギフトです。

 当日の様子は、王室のホームページで早速公開されました(スウェーデン王室〜新作能「北斎」公演在スウェーデン日本国大使館)。国王が日本文化を愛してくださっていることが伝わって嬉しくなったのです。

わがふるさとの生んだ「北斎」のパワーとは

ミレスゴーデン美術館「北斎展」入口の写真撮影エリアで記念撮影をする親子連れ(2018/5/30)

 能の公演に合わせて2週間にわたり開催された「ミレスゴーデン美術館〜北斎展」も大盛況でした。この美術館は、スウェーデンが誇る彫刻家カール・ミレス氏の私邸を活かした、中心市街地からは離れたところにありましたが、毎日1,000人を超える観客が駆けつけたのです。これは北斎のふるさと墨田区にある「すみだ北斎美術館」と、ほぼ同じぐらいの集客力です。ストックホルム市の人口が100万人に満たず、東京の1/13未満ということを考えると、その人気がうかがえるでしょう。2017年に大英博物館で3ヶ月にわたって開催され大好評だった「北斎展」が15万人の観客を集めましたが、北欧の小さな美術館でも「北斎」の魅力は健在でした。

 なにしろ、私が北斎のTシャツを着て歩いていると、街で声をかけられるほどの人気なのです。例えば、カフェに行けば、若い男子店員から「日本から来たのか?私もこの前東京に行った!」と感激されて、最後には「スゴイ!」と日本語で言い放ったのです。また、ピカソなどが展示されている現代美術館のチケット売り場の女性に話しかけられ、「私もいつか日本に行きたい」と笑顔でほほえんでくれたのです。残念ながら、北斎の生地で私の故郷、墨田区では、そんな体験はしたことがありません。

圧巻だったのは、美術館で開かれたトークイベントでの出来事です。私もパネリストの一人として、北斎と江戸の暮らしの魅力をお伝えしました。結びに、いつかスウェーデンのみなさんも日本を訪ねて、北斎の聖地である墨田区や小布施市を旅してほしいと訴えたのです。そんな1時間ほどのトークイベントが終わると、熱心に聴いていたスウェーデンの母子が、私のところに駆け寄ってきました。それは、なんと息子さんの進路についての相談だったのです。「私は、米国に留学したのだが、15歳になる息子が、いつか日本に留学したいと日本語を勉強している。どうしたら留学できるだろうか。」

 地球の反対側の国で、日本語を勉強して留学したいという若者がいて、わざわざ北斎展のイベントにまで参加してくれたです。どうして、こういった明るいニュースが日本には伝わらないでしょう? 聞けば、その少年は北斎はもちろんですが、北斎漫画からの系譜、日本のマンガやアニメなどのサブカルチャーに興味があるようです。きっかけは何であれ、彼のように日本が大好きだと目を輝かせて語る若者たちに、もっと留学してもらえばいいと思うのは私だけでしょうか? 「日本人よりも日本が大好き」かもしれない外国人留学生に、日本の文化や、その奥底に流れる精神の語り部になってもらえたら、どんなに嬉しくてありがたいことでしょう。

ミレスゴーデン美術館「北斎展」会場で開かれたトークイベント。右端で発言しているのが筆者(2018/5/30)

 今の日本では、オリンピックやワールドカップなど国際的なイベントを通じて来日する人を増やすという期待感が高まっているようです。しかしながら、地味で地道な作業かもしれませんが、今回のように日本の地域が誇る芸術を通じた化交流事業や、それをきっかけにした交換留学に力を入れる方が、地域に観光客を呼び込むための王道に思えます。お互いの文化や生活様式に敬意を表すことのできる若者を増やせば、それぞれの国を何度も繰り返し訪ねる人が増えるでしょう。それは真の「観光」と「外交」につながる道でもあります。

 これまで様々な国を訪ねてきましたが、今回ほど、日本人=日本文化の担い手として尊敬されていると実感したことはありません。もちろん、これは「北斎」「能」「マンガ・アニメ」といった「日本文化の底力」のおかげでありましょう。世界で最も有名な絵のひとつ「グレートウェーブ(神奈川沖浪裏)」のように、日本にとって絶好の大波がやってきたのです。

学生よ、自分たちの足もとの文化や芸術をもっと知ろう

 この大波を背にして社会人になれる幸せを、明治大学の学生たちに少しでも伝えたようと、帰国後の講義で熱弁を振るいました。ところが、悲しい現実に直面します。残念なことに、私が出会った北欧の若者たちに比べて、北斎にゆかりの深い東京で学ぶ大学生には好奇心や知識が圧倒的に欠如しているのです。ストックホルムの「北斎」トークイベントでは、若い学生と思しき会場の女性から質問を受けました。「北斎以外にも、見るべき浮世絵の作家はいるか?」という問いかけです。「ストックホルム東方美術館に展示されている写楽や歌麿も良いけれど、今、日本では国芳が人気を集めています。マンガやアニメファンが見ても伝わるものがあるでしょう」と私は答えました。すると、彼女は国芳も知っているらしく、笑顔でうなずいていました。

 私は講義でそんなエピソードを交えながら、明大生に「国芳を知っていますよね?」と聞いてみました。もちろん知っているだろうと思っての問いかけです。ところが悲しいことに、50名近くも受講生がいるのに、ただのひとりも手を挙げなかったのです。

 この温度差、知識差は大変さびしいことではあります。しかし、こうした悲しい現実も、見方を変えれば、心ある大学生にとっては大きなチャンスです。日本が大好きで続々と訪日する海外の若者たちに、マンガやアニメ以外の日本文化を面白おかしく説明できる若者が、決定的に不足しているからです。

すみだ北斎美術館と、隣接する江戸東京博物館を見学すれば、1日で江戸文化を学ぶことができる

 なにも美術評論家になるような勉強をしろと言っているのではありません。たとえば、夏休みを利用して、「すみだ北斎美術館」「小布施北斎館」に、思い切ってひとりで足を運んでみましょう。まずは心を空っぽにして観ることから始めます。最初は意味などわからなくても良いのです。外国人の若者と同じように、予備情報を頭に入れずに子供の目で見つめて、作品と対話しましょう。むしろ、解説文など読まず、イヤホンガイドも使わないで、自分が感じる心を大切にします。

 日本文化にひかれる外国人が知りたいのは、ネットで調べれば出てくる美術の専門知識よりも、北斎や能やマンガの根底に息づく日本人の心なのです。北斎の絵に驚くのは、現実を超えた大胆な構図や、常識にとらわれない自由な画法に魅せられたからです。ドラえもんやワンピースに感動するのは、夢見る心や冒険心、そして仲間を想う友情に共感できるからです。こうした日本のサブカルチャー、ポップカルチャーのベースにあるのは、私たち日本人にとって「当たり前の心」であり、みなさんの心にも通じる何かなのです。

 だからこそ、大学在学中に、留学生に負けないぐらい日本の文化・芸術に触れて、感性を磨いてみましょう。自分の心の中にある「日本文化の遺伝子」を再発見してみましょう。留学生とも語り合い、時には教わりながら、海外から見た日本の魅力を感じとってください。日本文化を知って愛することは、将来どんな職業についても、きっと役立つでしょう。そして、みなさんの人生を豊かにしてくれるはずです。