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池上彰の現代史を歩くベルリンの壁 偶然が開いた自由への扉

池上彰の現代史を歩く ベルリンの壁 偶然が開いた自由への扉
テレビ東京提供
authored by 池上彰東京工業大学特命教授

 20世紀に刻まれるニュースをひとつあげるなら、1989年に「ベルリンの壁」が崩れたことでしょう。壁はアメリカとソ連が鋭く対立していた東西冷戦の象徴でした。私が生きている間に取り壊されるとは夢にも思いませんでした。今回の取材では、自由を求めた人々の決断や偶然が重なって、時代の歯車が動いたことがわかりました。証言やエピソードをたどります。

西ドイツへの市民脱出を防ぐため建設

 「新たな冷戦の幕開けか」。アメリカとロシアの緊張が高まるたびに報道されるキーワードです。たとえば4月、アメリカやイギリスなどが、シリアによる化学兵器の使用を断定したとして、関連施設を攻撃したとき。2014年にロシアがクリミア半島を併合し、欧米が批判したときもそうです。大きな軍事力を持つアメリカとロシアの対立は世界を危機に巻き込む恐れがあるからです。

 東西冷戦とは、第2次世界大戦後、資本主義陣営と社会主義陣営が対峙した国際情勢を指します。イギリスの首相を退いたチャーチルは、46年の演説でソ連の秘密主義が広がる様子を「鉄のカーテン」にたとえました。米ソは戦火を交えず、影響下にあった国々で紛争や戦争が繰り返されました。

 敗戦後のドイツはまさに冷戦の最前線でした。国土の東側をソ連が、西側をアメリカ、イギリス、フランスが分割占領。東側の孤島のように位置していたベルリンも東西に分割されました。東と西に2つのドイツが成立した背景にはこうした対立構図がありました。

 東ドイツが61年8月、突然、西ベルリンをぐるりと囲む壁を築き始めました。自国民が西ベルリンに入って、西ドイツに亡命できないようにするためでした。東ドイツ側にあった西ベルリンから西ドイツとの間は、高速道路や鉄道で結ばれていたのです。

 コンクリートの壁は全長約155キロメートル。壁は二重に築かれていて、2つの壁の間には「死の回廊」と呼ばれた約100メートルの緩衝地帯が設けられました。東ドイツの兵士が監視し、脱出を図って撃たれるなど犠牲になった市民は200人を超えたといいます。

 東ドイツは社会主義体制を維持するために、盗聴や盗撮などあらゆる手段を使って国民を監視していました。秘密警察が政府に批判的な人物を逮捕して収容所に送り込んだり、協力者をつくって密告を奨励したりしたのです。逮捕者は20万人にも達したそうです。

「鉄のカーテン」が綻び始めていた

 ところが89年8月、ハンガリーで歴史的な事件が起きます。東ドイツの人々が西ドイツに大量脱出するきっかけを生んだ「汎ヨーロッパ・ピクニック」計画です。民主化を進めるハンガリーはオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し始めていました。「鉄のカーテン」が綻びつつあったのです。

 当時、東欧諸国には「観光ビザ免除協定」がありました。東ドイツの人々は観光という名目で隣のチェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分離)を経由してハンガリーに入国。国境を越えてオーストリアへ渡り、西ドイツへ亡命する新たな道が開けたのです。

 ピクニックを計画したハンガリーのラズロ・ナギーさん(60)は意外な展開に驚いたそうです。「本来はオーストリアの人々と話すのが目的でした。自由を求める人たちに勇気とアイデアを送れるかもしれないと考えましたが、東ドイツの人々が来ることは予想外だったのです」

東ドイツ出身のコーネリア・クップシュさんに、家族4人で西ドイツに脱出したときの経緯をインタビューする池上彰氏(左)(3月、ベルリン)=テレビ東京提供

 家族4人で参加し、西ドイツへ渡ったという東ドイツ出身のコーネリア・クップシュさん(60)にも聴きました。「東ベルリンは監獄のようでした。国境を越えれば逮捕される危険がありましたが、私たちは幸せになりたかったのです」


当時、国境警備隊にいたアルパード・ベラさん(71)も歴史的瞬間を目撃した一人です。「ハンガリー人以外は出国させない役割を負っていました。大勢の人々を暴力を使って止めれば流血の事態に陥る可能性がありました。私はそれを望んではいませんでした」

 この事態に慌てた東ドイツは「観光ビザ免除協定」を停止しました。ところが国民の不満を抑えきれなくなったのです。そこで出国ビザを申請できる仕組みに変えようとしたのですが、"世紀"の言い間違いが起きてしまいました。

 89年11月9日。政府の新任の広報担当者、ギュンター・シャボフスキー氏による会見の一部を紹介します。「出国のビザは申請次第、即座に交付される。出国は全ての国境検問所で可能である」と説明。政府が10日を想定していたといわれる変更を「直ちに」と強調したのです。記者たちには「いまから誰でも出国できる」と受け止められました。

 当初、東ドイツの放送局がこの政策の大転換を報じても、人々は半信半疑でした。ところが西ドイツから同じニュースが伝わると、人々は壁を目指し始めます。検問所のひとつだったボルンホルム通り検問所には、およそ2万人の市民が押し寄せたといいます。

「東ドイツは私の人生そのもの」

「『ベルリンの壁』は東ドイツの市民が西側に脱出するのを防ぐ狙いがあった」。旧東ドイツにあった秘密警察トップの執務室で解説する池上彰氏(3月、ベルリン)=テレビ東京提供

 自らの判断でこの検問所の扉を開いたハラルト・イエーガーさん(75)が証言しました。彼は秘密警察に所属し、警備を担当していたのです。「私は敗北感を味わいました。東ドイツは私の人生そのもの。ただし、大勢の人が集まっていたので、開けなければ悲劇的な結末になっていたでしょう」

 社会主義諸国は経済政策の失敗や財政悪化に陥っていました。自由と豊かさを求める人々を支配できなくなっていたのです。米ソ首脳は89年12月、冷戦終結を確認します。やがて、ドイツは統一を果たし、ソ連は消滅しました。ヨーロッパは統合へ向かいます。

 冷戦下、米ソに支配されてきた中東やアフリカの国々では、冷戦終結後、民族や宗教が大きな力を持つようになりました。民主化運動「アラブの春」によってシリア内戦が激しくなると、大勢の難民が欧州を目指したのです。

 現在のハンガリーは難民流入を抑えるため、セルビアとの国境に新たな鉄条網を築きました。難民に寛大なドイツでも、政策をめぐりメルケル首相は窮地に立っています。冷戦が終わり、世界は「自国第一主義」という新たな危機を抱え込んでしまったのです。

取材メモから
(1)ベルリンの壁はドイツを東西に分断した国境線ではない。
(2)東ドイツは国民の西ドイツへの脱出を防ぐため壁を築いた。
(3)壁の跡地は再開発地や一部を見学できる施設などになっている。

◇    ◇

〈お知らせ〉 コラム「池上彰の現代史を歩く」はテレビ東京系列で放映中の同名番組との連携企画です。ジャーナリストの池上彰氏が、20世紀以降、世界を揺るがしたニュースの舞台などを訪れ、町の表情や人々の暮らしについて取材したこと、歴史や時代背景に関して講義したことを執筆します。

[日本経済新聞朝刊2018年7月16日付、「18歳プラス」面から転載]

※日経電子版に「現代史を歩く」「大岡山通信」「教養講座」を掲載しています。

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