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ホンネの就活ツッコミ論(79)内定の語源から就活ルール・規制の難しさを考える

ホンネの就活ツッコミ論(79) 内定の語源から就活ルール・規制の難しさを考える
authored by 石渡嶺司大学ジャーナリスト

 今回のテーマは「就活ルールの難しさ」です。第75回でも就活ルール規制の是非や見通しなどをまとめました。10月3日現在、2021年卒は現状維持であることが決まっております。こうした就活ルールの議論が出てくると、必ずと言っていいほど法制化または規制強化の是非についても話題となります。

 就活ルールについて学生本位かつ政府主導で、というのも法制化・規制化の是非と同じラインのもの、と言えるでしょう。日本は法治国家ですが、実は就活ルールについては法制化・規制化が難しいテーマなのです。そして、その歴史の中で生まれたのが「内定」でした。なぜ、法制化・規制化の是非と内定の語源が関連あるのか、本稿で解説します。

日本初の就職協定は90年前の1928年

 まずは就活の歴史から。

 日本において大卒採用が定着したのは大正時代です。当初、選考開始時期は大学卒業後でした。ところが、第一次世界大戦で日本は大戦景気となり、学生の売り手市場となります。そこで景況感の高まった1915年前後には早くも卒業後という慣習が変化していきます。

 1920年代には4年生11月ごろに選考開始、というスケジュールが定着します。現代からすれば、4年生11月なら十分遅いと今なら思うのですが、当時はこれでも早すぎると問題になっていました。

『就職戦術』(1929年、寿木孝哉、先進社)によると、

「学生は学校卒業期になると就職運動にばかり狂奔して遂にその学業を捨てて顧みないといふ風を生じ、これがために卒業年度に於ける成績が、1年、2年当時に比して著しく悪いと云ふ傾向を示し」

とあります。

 そこで1928年、日本銀行、三菱銀行など有力銀行頭取の団体である常磐会例会は選考時期の検討を開始します。そして、この常磐会メンバーの銀行以外に、三菱合資、三菱銀行、三井物産、日本郵船、大阪商船など18社の連名で選考を卒業後とする協定を発表しました。

 この協定は1929年卒業生から1934年卒業生まで一応適用され、別名を六社協定とも言います。主要企業の呼びかけで罰則はないとはいえ、多くの企業が同調。文部省や主要大学も承認し、官庁も文部省の強い要請により卒業後採用に移行します。

 この日本初の就職協定をめぐって、時期は色々議論されたらしく、卒業前・4年生11月選考開始を推す社もあったようです。しかし、「学生の修学上其他に於いて種々弊害を伴ふのみならず採用者側としても時多くは歳末繁忙期に際し時期を得ざる次第」として卒業後選考に落ち着きました。

 ここで注目したいのは「修学上の弊害」が理由となっていること。就職協定は最初のものから、学業が理由となっていたことが明らかになりました。当時は今以上に大学での学力が問われ(成績については賛否両論ですが)学力試験も課されていたので無理からぬところ。もっとも、学業云々は単なる建前で「歳末繁忙期に際し時期を得ざる次第」が本音のような気もします。

 初の就職協定が適用される1929年卒業生は大戦景気など過去のもの、金融恐慌(1927年)の余波で買い手市場となっていました。学生不利・企業有利の環境、文部省・大学の承認と条件が揃い、協定は守られるかに見えました。しかし実際には協定1年目から崩れます。

 まず、学生は就職の環境が悪い分、早く動こうとします。

「今年卒業の学生は就職難の不安が二カ月延長されただけで不安が増大し、学校当局もこれを見捨てておくわけにも行かないので『協定の趣旨尊重』を内々破って協定以外の会社に向かつては卒業前の就職運動を始めかけた向もあり、就職難不安の時潮は『卒業後選考協定』最初の試みを裏面では押し倒そうとしてゐる」(東京朝日新聞1929年1月18日)

 協定1年目の1929年はまだそれでも遵守した企業が多く、協定に入っていない社でも3月ごろに選考と時期を遅らせました。付言しますと、この協定で卒業後に採用、としていました。そこで、卒業前に実質的に採用を決定することを「内定」と呼ぶことが定着し、現在に至っています。

90年前の就職協定、あっさり崩壊

 この内定が就職協定を崩壊させます。2年目(1930年卒業生)には早くも協定呼びかけ18社からの内定が出ます。

 3年目(1931年卒業生)についてはこんな記事が。

「例の『卒業後採用の申合せ』の方針に準じて決定を留保し単に内定を伝へるだけのところが多い。ために内定者は何とない不安に駆られて更に各方面へ履歴書を提供するのでただでさへ繁雑な事務室の手数を倍加してゐるばかりでなく、もしその内定者が別方面へ再び採用された折りにはいずれか一方の就職口が無駄なのだから、就職希望の学生にとってもこの内定といふことは甚だ迷惑なわけである」(帝国大学新聞1931年3月2日)

 内定という言葉が定着する以前の1922年には、のちの東京都民銀行頭取が内定辞退をしています。金融恐慌から立ち直りつつあった1931年にはもっと増えていたとしてもおかしくはありません。1933年卒業生はさらに好転、「インフレ就職」ともいわれるくらいの売り手市場に変わりました。こうなると就職協定など守られるわけがありません。結局、1934年卒業生に適用されたあと、廃止となります。

 以降、4年生11月ないし1月(当時、卒業試験は2月か3月でした)ごろに選考が実施されるようになります。卒業後選考だった官庁も競合する民間企業に先を越されては、と1938年(1939年卒業生)から4年生11月選考に前倒しとなりました。

協定の当初は18社なのに「六社協定」の理由

 なお、六社協定の名前の由来は最後まで協定を締結していたのが、日本銀行など6社だったことから。つまり、残り12社は協定の当初は守っていましたが、その後、脱落していったことを示しています。6社のうちの1社、安田保善社はこんなコメントを残しています。

「六社協定に代わる理想案として日本全部の一流中流会社を網羅する事も考へられるが何分こんな協定は違反に対する制裁規定が作られないので現実的には如何ともし難い」(帝国大学新聞、1935年9月23日)

法制化・規制化の難しさは戦前から

 就活ルールや時期について法制化・規制化の難しさはこの安田保善社のコメントにあらわれています。そして、それは戦前だけでなく現代においてもまったく変わりません。

 現代の日本国憲法は第21条で集会・結社・言論・出版その他の自由を認めています。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 もしも採用広報に制限を加えるのであれば、憲法改正まで考えなければならない話になります。学生の就活は憲法改正までして規制すべき、という議論に賛同する国民はほぼいないでしょう。

自由化・通年採用も結局は合わない

 だったら、いっそのこと、完全に自由化、あるいは企業が好きなタイミングで採用できる通年採用に移行すべき、という議論もあります。それが実現するかに見えたのが1996年の就職協定廃止でした。これによって就活の時期は前倒しとなり、合わせて通年採用に移行するかに見えたのです。しかし、結果としては3年生秋ごろに説明会開始(1996年以前は4年生7~8月ごろ)と前倒しにはなったものの、大半の企業は足並みをそろえることになりました。

 今回の就活ルール廃止の是非についても、私は1996年の就職協定廃止を繰り返すだけ、と見ています。通年採用に移行、と言っても大半の企業は3年生秋・冬から4年生春にかけての選考、ということで落ち着きます。この時期を外れて採用するのは現在も時期を外しているIT業界、外資系企業、それと大手企業の採用が一段落した後に採用を始める中小企業などでしょう。

 つまり、いくら自由化・通年採用の旗を振ろうと、経団連主導から政府主導に変わろうと、根本では変わらないのでしょうか。内定という語源から私はそのようなことを考える次第です。