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羅針盤NEO(1)君はそれでも東大を目指すのか
~グローバル時代を生き抜くために

村上憲郎 authored by 村上憲郎 元グーグル米国本社副社長兼日本法人社長、前名誉会長
羅針盤NEO(1) 君はそれでも東大を目指すのか ~グローバル時代を生き抜くために

 グローバル時代の到来が叫ばれるようになって久しい。グローバル化そのものの是非について賛否があるとしても、それは避けがたい現実である。米国の住宅ローンの焦げ付きが全世界の経済危機を招いた、いわゆるリーマン・ショック(2008年)が、グローバル化の典型例として記憶に新しい。これから否応なしに、そんな時代を生き抜いて行かざるを得ない日本の若者に、米グーグルやいくつものグローバル企業で働いた経験を持つ先行者として、いくつかの事を伝えておきたいと思う。

「グローバル化」には3段階ある

 グローバル化といっても、少なくとも(1)inter-national、(2)multi-national、(3)trans-national――の3つの段階がある。ここで共通するnationalというのは、「国の、国民の」といった意味合いの言葉であり、(1)のinterとは「際を越える」、(2)のmultiというのは「多数の」、(3)のtransというのは、「変幻自在な」といった意味合いの接頭辞である。従って、inter-nationalは「国際」と、multi-nationalは「多国籍」と訳される。trans-nationalには、適切な訳語がない。

 

 この3つの段階を企業体になぞらえて考えてみる。inter-nationalな企業とは、製品・サービスの販売先や原材料の調達先を、国境を越えて海外に求め始めた企業を思い浮かべれば良い。multi-nationalな企業体とは、製品・サービスの販売や原材料の調達のために海外に出先の事務所、支店、子会社などを設立し始めた企業である。

 この2つは引き続きその本社機能は本国に存在するということが共通の特徴だ。これが、trans-nationalな企業となると、その本社機能ですら海外に分散し始める。言い換えると、企業体の各部分の機能を、その機能を執行する上で最も効率的に行える国で行う企業ということになる。

 次にこの3つの段階を、グローバル人材という観点から見直してみたい。まず、inter-nationalな人材とは、海外出張を命じられても平然とこなせる人材である。multi-nationalな人材とは、海外の出先事務所、支店、子会社等へ転属・転勤して行ける人材である。この転属・転勤が単なる海外出張と違うのは、出先国の就労Visaの取得が求められることだ。その国で就労して所得を得て、所得税を収めるということが想定される。


「trans-national」という名のグローバル人材

 さて、trans-nationalな人材とは、これらとは大きく異なる。人生の各段階を過ごす上で、ステージごとに最適な国で人生を歩む、あるいは、歩んできた人材である。「こうあるべき」という意味ではなく、単なる一つのパターンとして、こんな人生もあるという例を挙げてみよう。

 日本人の父母を持ちながら米国で生まれた子供がいたとしよう。その子は米国の国籍を手に入れた上で、初等教育も米国で受け、米語を母国語とする。次に中等教育は日本人としてのidentityを獲得するために、日本で受ける。高校教育は、米国に帰って受け、大学も米国の大学に行く。その後、欧州の大学院に行き、再度米国に舞い戻って就職する。数年後にはシンガポールの会社に転職し、さらに数年後、欧州で起業する――。

 出生まで計画的に考えると、このような人生設計には親の全面協力が不可欠であり、言い換えると、多くの日本人にとっては既に手遅れという側面もある。しかし、そうした人生設計が、ある意味で理想的だということを理解し、遅ればせながらでも、それに近づけるべく努力するという人も、十分、trans-nationalな人材と呼んで良いと思う。

 いずれにせよ、先に挙げた3段階のグローバル人材に共通する必要条件は、言うまでもなく、グローバルな共通語となった英語の運用能力である。英語がグローバル言語の地位を獲得してしまったということに関しても、その是非を巡って賛否があるだろうが、その賛否ですら英語で表明されない限りグローバルには届かないというのが現実だ。

「英語を学ぶ」ではなく「英語で学ぶ」

 英語の運用能力というのは、今や、英語「を」勉強することだけで得られるレベルにとどまらない。英語「で」勉強することによって獲得されるレベルが求められるレベルになってしまったということを強調しておきたい。

 これに関連して、最近、話題になるのが、日本の東京大学や京都大、早稲田大や慶應大といった有名大学の国際評価の急激な下落がある。その大きな理由が、学問業績の低迷といったことでは全くなく、留学生の少なさ、外国人教員の少なさ、そして決定的なのは、英語による講義が皆無に近い状況という理由である。

 

 日本は明治維新以降、先達が備えていた漢学の蓄積のお陰で、欧米先進国の諸学問を急速に日本語化し、後進国でありながら、母国語で高等教育が受けられる稀有な国として、少なくとも、いわゆる団塊の世代までは、その恩恵に浴してきた。

 しかしここに来て、世界のわずか1%の人間しか使っていない日本語というローカル言語で高等教育が受けられるということは、もはや恩恵ではなく、桎梏(しっこく)に転じたということを率直に認めるべきだと思う。

 そのことは日本の大学の国際評価の急激な下落に現れている。文科省も気づいていて、様々な対策を取り始めている。ひとつがIB(International Baccalaureate)への対応である。IBについては、文科省のサイトで詳細に解説されているのでそれを参照していただくとして、特に注目すべきは、DPと略称されるディプロマ・プログラム(世界2,623校・国内19校が認定済み)の急速な普及方針である。

 これは、16~19歳を対象としたプログラムで、所定のカリキュラムを2年間履修し、最終試験を経て所定の成績を収めると、国際的に認められる大学入学資格(国際バカロレア資格)が取得できる。原則として、英語、フランス語又はスペイン語で実施される。

悲観するな、まだ手遅れじゃない

 IBは英語という点のみならず、より重要なポイントは、その理念としての学習者像がある。「IBの学習者像」は、「IBの使命」を具体化したもので、「国際的な視野を持つとはどういうことか」という問いに対する答えにもなっている。具体的には、IB認定校が価値を認める人間性を、以下10の「人物像」として表している。

 探求する人、知識のある人、考える人、コミュニケーションができる人、信念をもつ人、心を開く人、思いやりのある人、挑戦する人、バランスのとれた人、振り返りができる人――。

 明治以来、日本の教育は欧米先進国に追い付くために、効率よく正解を覚えこむことが主眼になってきた。しかしグローバル人材に求められているものは違う。問題そのものを発見する、考え付く、その上で、その正解があるかどうかもわからない問題の答えを求めて考え抜くという方向に、日本の教育は大きく舵を切らなければならない。

 グローバル人材の理想的な形としてtrans-nationalな要請を説明した時、多くの人達は「その理想は自分には既に手遅れ」と認めざるを得ないかもしれないと述べた。この新しい教育に関しても「もう手遅れ」と感じる人が多いのも偽らざる現実だろう。

 しかし、悲観する必要はない。遅ればせながら、「旧来の教育を受けてきた自分だけど、新しい教育で羽ばたくような人物像に近づきたい」と強く念じ、努力すればよいではないか。そうやって自身を奮い立たせ、努力を怠らなければ、十分、これからのグローバル時代を生き抜いて行けると思います。ご健闘をお祈りします。

村上憲郎(むらかみ・のりお)
1947年大分県佐伯市生まれ。70年京都大工学部卒。日立電子、日本ディジタル・イクイップメント(DEC)をへて、米インフォミックス、ノーザンテレコムの日本法人社長などを歴任。2003年から08年までグーグル米本社副社長兼日本法人社長、11年まで名誉会長を務める。現在、村上憲郎事務所代表。

村上さんが日経電子版に連載していた「村上憲郎のグローバル羅針盤」はこちら

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