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ウルトラマンが泣いている
円谷プロの栄光と挫折

ウルトラマンが泣いている円谷プロの栄光と挫折

 ウルトラマンで知られる円谷プロダクション(東京・渋谷)。「特撮の神様」といわれた創業者、円谷英二氏は斬新な特撮技術で一時代を切り開いた。最初のテレビ放送から50年近くが過ぎ、ウルトラファンは数世代に渡る。ファンの輪は海外にも広がり、コンテンツ輸出を推進する「クールジャパン」の先駆けといえる。

 英二氏の孫で、6代目の社長を務めた円谷英明氏が出版した「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」(講談社)は、栄光と挫折の半世紀を振り返った内容だ。創業一族はすでに、同社との関係を絶たれているが、内情を知る英明氏だからこそ語れる、特撮技術の面白さが盛り込まれて興味深い。ウルトラマンという不朽のコンテンツの光と影を、ファンに向けてたっぷりと披露してもらった。

本物にこだわった結果、船は7メートルに

※円谷プロの歴史は、創業者の英二氏が1948年に特殊映画技術研究所を設立したことに始まる。その後、63年に東宝の出資を受けて法人化。66年にTBSで「ウルトラQ」「ウルトラマン」を放送し脚光を浴びた。

円谷 英明氏(つぶらや・ひであき) 1959年東京都生まれ。中央大学理工学部卒。バンダイ勤務を経て、祖父英二氏が創業した円谷プロダクションに83年入社。2004年円谷プロの6代目社長に就任。05年の退任後、円谷ドリームファクトリーを立ち上げ、中国で特撮番組の制作に取り組んだが、10年に撤退。現在、別の企業で働いている。趣味は海釣り、テニス。

 ――特撮は工夫の連続だったそうですね。

 「祖父(創業者の英二氏)は、カメラ越しにみえる映像に本当にこだわっていました。ミニチュアを使ったセットを用意して撮影しますが、『火』と『水』だけはミニチュアにできない。苦労していました。水面に浮かぶ船の場合、小さい模型だと木の葉のようで本物らしくない。スケールをどんどん大きくして、全長が7メートルもある船をつくっていました」

 「船の沈没シーンでは強い浮力がはたらくので、滑車を使って何十人ものスタッフがロープを一生懸命引っ張って沈めていました。上空から海を見下ろす場面では、水を注いだプールでは海らしくみえない。そこで考えた末、寒天を敷き詰めたところ、海らしくなったのです」

 「壊れ方にも工夫を凝らしました。鉄塔が怪獣の光線で溶けるシーンでは、鉄塔が燃えて炎が見えてはおかしい。そこで素材をロウにしたところ、グニャリとうまく溶ける。ビルも木材だと壊れ方が本物らしくない。ウエハースを使ったら、派手に飛び散って壊れて臨場感が生まれました。特撮は、CGでは出せない奥行きを表現できる手法だと思います」

太陽の光に照らされるウルトラマンの像(円谷プロ創業の地、東京都世田谷区)

 ――円谷プロは数次にわたる怪獣ブームを巻き起こしました。

 「怪獣ブームは『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が人気を呼んだ第1次(66~67年)を皮切りに、第5次(2004~06年)まで、おおむね5つの時期に分けられます。初期でいうと、子供向けの30分番組なら1回200万円くらいが相場の時代に、1000万円もかけてつくっていた」

 「制作費だけでは採算に乗せることが非常に難しい。平成になってからも1回4000万円、ときには5000万円もかけた。いいものをつくろうという熱意はあったものの、収支管理という意味では経営上大きな問題がありました」

 「初期の怪獣ブームのころは、外部の企業から商品にキャラクターを使いたいという要望があれば、無料で使用を認めていました。番組の宣伝になればいいという発想でした。祖父は生前、米ディズニーを見学したこともあり、同社がキャラクターを厳重に管理していることは知っていたはずです。しかし日本では、まだ大したカネにならないという感覚だったのでしょう」

 「ビジネスとして著作権管理を考えだしたのは、70年代に入ってから。番組制作の収支管理の甘さだけでなく、このキャラクタービジネスにも問題がありました。制作に多額の費用をかけて赤字になっても、キャラクタービジネスで回収できると考えたのです。番組が人気を呼び、キャラクター商品が売れている時期はいい。ピーク時には社員のボーナスを入れた袋が立ったという話もありました。ところが怪獣ブームが去ると会社の収入も大きく減って、経営が苦しくなるのです。怪獣ブームには、激しい浮き沈みがありました」

70年代から海外進出、だが禍根を残す結果に

※70年代前半に、初代社長の英二氏、2代目社長の一氏(=英明氏の父)が相次ぎ亡くなる不幸に見舞われた。さらに事業拡大を狙って海外にも進出したが、これが後に禍根を残すことになる。

「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」(講談社、税別740円)では、特撮技術で一時代を切り開いた円谷プロの栄光と挫折の半世紀を振り返った

 ――円谷プロは、長期にわたる訴訟を余儀なくされました。

 「74年にタイで、現地のチャイヨー・プロダクションと劇場用映画『ジャンボーグA&ジャイアント』を合作しました。のちにタイ側が、ジャンボーグAは自社単独の制作だったとして著作権を主張します。さらに95年になって、いわゆるクラシック・ウルトラマン(ウルトラマンタロウまでのシリーズ)のキャラクター使用権を、76年に円谷プロから譲渡されていたとして、契約書の存在を明らかにしたのです。この契約書の真偽をめぐって、訴訟を繰り広げることになります」

 「契約したとされる当時の円谷皐(のぼる)社長はすでに亡くなっています。皐社長が資金不足に困って権利を譲渡した可能性はありますが、こちらからすると真相はやぶの中。訴訟が長引いたうえ、国によって司法の判断も異なり、すっきりしないものでした。例えば、2004年、日本の最高裁では敗訴したのですが、08年になってタイでは逆に勝訴したといった具合です」

 ――海外展開を目指す日本企業にとって、他人事(ひとごと)ではない話です。

 「結局、円谷プロは職人の集団だったのです。経理、総務、法務、営業と各分野にプロを配置すべきなのに、その人材が足りなかった。いいものをつくろうという姿勢だけでは、経営を維持できません」

 ――海外といえば、タイ以外でも各地で事業を展開しましたね。

 「1987年に米国でアニメ映画『ウルトラマンUSA』を、90年にはオーストラリアの企業と実写版TVシリーズの『ウルトラマンG』をつくりました。ただ米国は、等身大のスパイダーマンやスーパーマンが人気を呼ぶ文化です。どうも遠い星からやって来た巨大ヒーローはなじみにくかったようです」

かつて熊本県荒尾市にあった「ウルトラマンランド」。歴代のウルトラヒーローが集結した(撮影年不明)

 「中国でも挑戦しましたが、猫の目のように変わる現地の規制に翻弄されます。90年代はじめ、中国でウルトラシリーズを放送しました。その当時はまだ放送への規制が緩かったのです。ところが94年に外国の作品への規制が厳しくなり、日本作品への風当たりも強くなりました。子供への悪い影響を排除するためとして、暴力シーンをカットするよう指示されたのです。さらに子供がウルトラマンをまねてけがしたといって、放送できない事態に陥ったこともありました。半面、ビデオCDへの規制は、購入者しかみられないという理屈で緩く、中国で結構、売れました。このほかアジア各地で現地放送したり、キャラクタービジネスを手掛けたりもしました」

会社は人手に、中国で再起図るもトラブルに泣く

※著者である英明氏は2004年、円谷プロの6代目社長に就任した。「ウルトラマンネクサス」などの放送枠を確保し、売上高も上向いた。だが翌05年には辞任に追い込まれる。その後、円谷プロは外部企業の傘下に入った。

――社長だったころの円谷プロの状況は。

 「当時、会社の売上高が上向いて、30億円程度ありました。そのうち半分が著作権関連やイベントからの収入、残る半分が制作収入です。売上高のうち、海外分はあわせて1億円程度だったでしょうか」

 「一族の間でぎくしゃくし、結局、05年に社長を辞めることになりました。こうした騒動は、会社の信用にも影響を及ぼしたと思います。その後、手元資金が足りなくなった円谷プロはTYOの傘下に、続いてフィールズの傘下に入ることになりました。現在では円谷一族は皆、経営から退いています」

 ――退いた後も、自ら事業に挑んだそうですね。

 「円谷プロの経営から退いた05年、円谷ドリームファクトリーという会社を立ち上げました。中国で特撮番組をつくって現地で放送する狙いです。円谷プロ時代からの夢で、いわば中国版のウルトラマンをつくりたかったのです。『五竜奇剣士』という特撮ドラマに取り組みました。現地の文化や好みにあった作品を狙って、風水にもとづいた設定を考えました」

 「細かいミニチュアを作るのは日本人が優れているだろうと思っていたら、実は中国人スタッフは大変器用でした。建物を本物そっくりに仕上げる技術を持っていたのです。一方で撮影機材やカメラワークは、まだまだでした」

もう一度、中国ビジネスに挑戦したいと考えている

 「中国ビジネスは難しかった。半年で制作を終え、全編まとめて事前のチェックを受ける必要があるなど、数々の制約を受けました。経営が苦しくなった時、資金援助してくれる日本企業があり、大変ありがたかったものです」

 「ところが、さらに難問が待ち受けていました。中国で委託先だった編集会社が反乱を起こしたのです。先方は映像素材をすべて押さえてしまい、全作の業務委託料を前払いしろ、と迫ってきました。一部の前払いならともかく、多額の前払いなど無理なこと。失意のうちに2010年、事業継続を断念しました」

「セブン」を超える作品は結局、生み出せなかった

自著を前に、これまでのこと、そしてこれからのことを語ってくれた

 ――日本企業が、中国で番組を制作するのは不可能に近いということですか。

 「中国の国営企業と合弁で事業を立ち上げ、あらかじめ全作を制作したうえで現地でチェックを受ける時間を考えると、放送できるまでに2年はかかる。この2年間のリスクを乗り越えて、まとまった資金を投じようという日本企業はそう多くはないでしょう」

 ――ウルトラマンは最も多くの派生シリーズを生み出したとして、ギネス世界記録にも認定されました。いま改めて、円谷プロの歴史を振り返って、どういう感想を持ちますか。

 「初期のウルトラセブンを超える作品を、その後生み出せませんでした。セブンはストーリー、シリーズ構成など本当にバランスがとれていた。放送期間の中だるみもありませんでした」

 「他社の話でいうと、スーパー戦隊や仮面ライダーのシリーズは、コンスタントに放送しています。ところがウルトラシリーズは、何年も間があくことがあった。たとえば第3次怪獣ブームのウルトラマン80(1980年)の後、16年も空白ができたのです。これではファンも離れてしまうでしょう」

 ――これから、どういう身の振り方を考えていますか。

 「中国ビジネスをあきらめたわけではありません。いまは全く関係ない企業で働いていますが、もう一度、中国でキャラクターに関係する事業に挑戦したいと思っています」

インタビューを終えて......「キングギドラ」の3つの頭

※「口のうまい人たちが寄ってくるんですよね」。取材の最後に、円谷英明氏がポツリつぶやいた。甘い言葉を使って、会社に寄ってくる人がいたという。一方で創業一族の感情の行き違いから、社内がギクシャクすることもあったらしい。祖父の英二氏が創業した会社の経営を、全うできなかったことがいかに無念だったか、ひしひしと伝わってきた。

※3つの頭を持つ怪獣「キングギドラ」になぞらえて、円谷プロにも3つの頭が必要だったと指摘する。(1)番組制作能力に秀でた頭(2)放送枠確保のためテレビ局に営業する頭(3)商品にキャラクターを使ってもらうため玩具、文具、食品メーカーに営業する頭――のことだ。3つがうまく機能していたら、今日の事態を招かなかったとくやむ。

※とはいえ、過去を振り返ってばかりではないようだ。もう一度、キャラクタービジネスを仕掛けたいとの思いを温めている。今後の展開に期待したい。
(村山浩一)[日経電子版2014年3月25日付]

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