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コメから化粧品
元バンカー、農家を動かす

コメから化粧品元バンカー、農家を動かす

 「深く息を吸うとクラッとしますから気をつけてくださいね」。ファーメンステーション(東京・港)社長の酒井里奈(42)が直径2メートルほどの釜を開けると、強いアルコールの香りが鼻をつく。中をのぞくと乳白色の液体がブクブクと泡立っている。玄米を発酵している真っ最中だという。

 ここは岩手県奥州市の小さな工場。作っているのは日本酒ではない。地元の無農薬米から高純度のエタノールをつくり、せっけんや化粧品の最終製品に仕上げる。東京で小学生と保育園児の2児を育てる酒井はほぼ毎週ここに通い、製品開発や品質管理に精を出す。

「ここでやめていいんですか」

 酒井が2009年に設立したファーメンステーションの製品は高価だ。「奥州サボン」と呼ぶせっけんは1個2160円。販路は当初の物産館から三越など百貨店や高級スーパーに広がる。同社の売上高はまだ年数百万円だが、この春には大手化粧品会社に原料となる岩手産エタノール納入も決まった。今年植えるコメの作付面積は9000平方メートルと2年前から3倍に膨らむ。

 追い風に乗るいまの状況を、少し前の酒井は想像すらしなかった。12年末。酒井は大泣きに泣いて訴えていた。「ここでやめちゃっていいんですかっ」。コメからつくるエタノールの活用策を探る奥州市の実証実験に参加し「化粧品に利用できる可能性がある」との報告書をまとめた。だが事業をめざす人が現れず、立ち消え寸前に。「可能性があるのにやり手がいないのは悲しすぎる」。酒井は自ら手を挙げた。

ファーメンステーションの酒井社長は2児の母。子育てしながら毎週、岩手県奥州市に通う

 なぜ、ここまで岩手の事業に入れ込むのか。東京生まれの東京育ち。1995年に富士銀行(現みずほ銀行)入行。200人ほどの同期でわずか数人の女性総合職のひとりで、台湾新幹線への融資計画にも携わった。「かばん持ちだった」とはいえ、巨大プロジェクトを動かす仕事に魅力を感じ、外資系ファンドやドイツ証券でも働いた。

 バンカーとして順調に歩んでいたが、05年にたまたま見たテレビ番組が酒井の人生を変えた。そこで紹介していたのは生ごみを発酵させてエタノールを作る技術。「発酵っておもしろそう」。なぜかその魅力にとりつかれ、ビジネスにつながる予感がした。すっぱりと金融の世界から足を洗い、東京農業大学に入った。

 酒井と奥州市が結び付いたのはこのときだ。くだんの実証実験では地元農家は、エタノールを自動車燃料にすることにこだわっていた。だが製造コストはがんばっても1リットル1000円。ガソリンに対抗するなら100円以下にしなければ採算が合わない。

 「もうからなければ田んぼも所得も維持できませんよ」。酒井は実験の目的を大きく転換しようとした。高級化粧品、せっけん、消臭スプレー......。活用策のアイデアはほとばしったが農家や市役所の職員は「そんな高ぇもん買う人いねぇべじゃ」と聞く耳を持たない。東京の百貨店で買った4000円のせっけんを持ち込み「高くても価値があると思えばお金を出す人はいるんです」と説得した。

 テレビ番組に触発されて会社を辞めた酒井は、思い立つと動く習性があるのだろう。化粧品の展示会に参加して情報を集めたり、メーカーにアポなしで飛び込んで試作品を紹介したり。化粧品会社の多くがエタノールの原産地や原料を知らないことも知った。

 精力的な活動から導いた「コメから化粧品」。賛同者がなく、泣きながらでも起業できたのは酒井に「産地や製法が確かであれば高くても売れる」という確信があったからだ。

 日本のコメ需要はこの20年で2割ほど減った。だが農家は簡単に耕作をやめられない。酒井からコメ生産を託されている農事組合法人アグリ笹森の織田義信(63)は「世の中が変わっても農家は水田を守りたい」と話す。酒井の事業を支える地元農家の及川久仁江(52)は「酒井さんがいなかったら何も動かなかったでしょうね」と振り返る。

東京・岩手を往復、懸け橋に

 酒井は「農業は地域に根ざした事業者がいないとうまくいかない」と考える。だがそのコミュニティーに移り住んで、閉じこもってしまうと新しい発想は生まれない。東京と奥州市を往復し、消費地やメーカーの懸け橋となる酒井が稲作の新しい活路を開く。

 酒井は今、発酵・蒸留設備とノウハウ、資材をひとまとめにし、全国の農業団体などに販売する構想を描く。エタノール原料は芋でもニンジンでもカボチャでもいい。タイでキャッサバからエタノールをつくる実証実験も終えた。「海外にもどんどん広げたい」。2年前ついえかけた事業の芽は力強く育っている。=敬称略
(秦野貫)[日経産業新聞から転載、日経電子版2015年6月6日付]

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