日本、スコットランドで いつも私の隣にあったもの
ウイスキーガール(3)
小嶋冬子のウイスキーガール
スコットランドの留学を終え、帰国。その後は日本での生活も落ち着くと思っていました。ところが、自分自身も想像がつかなかった逆ホームシックにかかってしまいました。スコットランドでの日々を思い出して恋しくなる。それほど、私にはたくさんの衝撃や経験を留学生活で学んだという証拠です。何をしても手につかず、どこかパッとしない毎日。本当に精神的に辛いものでした。
できるだけ早く、お金を貯めてすぐにでも戻ろうと考えていました。ただ、その理由は単に自分がその生活を恋しいからで、勉強が目的でも何でもありませんでした。あのままだったら、たとえお金だけ貯めて帰ったとしても何も結果を出すことなく日本に戻っていたと思います。金銭面で厳しい状況の中、私が海外に行くには何か理由があって形に残す必要があったのです。
外資系企業のインターンで気づいた
大学2年生の夏、幸運にも大手外資系企業でのインターンシップに参加しました。この経験が、2度目の渡英への考え方を変えました。インターンシップ中の業務内メール、プレゼンテーションの資料作成など、全て英語でこなすことによって自身の足りなかった点がいくつも浮き彫りになり、自分の考え方も非常に未熟であることに気づきました。
自分の限られた能力で、高い向上心とスキルを持ったその会社の人たちや、超有名大学から来ているインターンの有能な同期と働くことの難しさや、恥ずかしさまでを強く感じ、それと同時に、今のままでスコットランドに戻ってはいけないと気づきました。私がスコットランドに戻るにしても、少しでも成長して戻らなくては意味がないと思ったのです。それから、再度、渡英のための資金を貯めると共に、自分が成長できると思うことすべてにできる限り取り組みました。どうしてもスコットランドが恋しいときは、ほんの少しウイスキーを飲み、気を紛らわせていました。
再びスコットランドへ
大学2年生の冬、念願叶って1人でスコットランドに戻りました。事前に現地でのアパートも何もかも、全て自分で手配。どうしてももう一度戻りたいと思っていたスコットランドでの生活はやはり充実していて、私はやっと肩の力を抜くことができました。去年よりもさらに充実し、自分らしくいられました。そこでやっと、実に1年間かかっていた逆ホームシックを克服することができたのです。そして初めての留学から、再びスコットランドの生活に戻るまで、自分の隣にはずっとウイスキーがあったことに気づきました。
ウイスキーがなければ良くも悪くも日本での時間をつないでこれなかったでしょう。そう思うと、ウイスキー作りに携わりたいと感じるようになりました。難しくても強い気持ちがあれば願いは叶えられると思った私は、世界をもっと見てみたいと思うようになりました。2度目のスコットランドを後にし、日本へ帰国。自分でウイスキーを作ってみたいという決心をし、早速、世界の蒸留所を独自に調べ始めました。
次の舞台はアメリカ・シカゴ
しかし、海外で仕事なんてそうそう見つかるはずもなく、特に蒸留所となると数も限られています。それでも、毎日少しずつ、自分が働きたいと思う蒸留所を探し続けました。今までの経験から、あと少し頑張れば何かが変わるかもしれない、そんな思いから見つけ出したのが、アメリカの蒸留所がインターンシップ生を探しているという記事でした。そこは全てオーガニックの原材料を採用し、新しい手法でウイスキーを製造しているとのことでした。それに、今までにない洗練されたボトルデザインに魅力を感じました。「ここしかない!」と思ったのですが、その記事はなんと2年前に投稿されたもので、既に募集は終了していたのです。それでも、わずかな希望を胸に、自分のレジュメとCV(履歴書)、なぜウイスキー作りをしたいかを付け加え、メールを送りました。
そしたらなんと後日、その蒸留所のCEOであり、現在の私の上司であるRobertから「直接話をしたいから電話をしたい」という返事が来たのです。そこからすぐに彼と電話で話をしました。日本からの応募は初めてで非常に目を惹いたため、私に返信してくれたそうです。私は彼との会話の中で「なぜこの蒸留所なのか」「なぜウイスキーを作りたいか」を伝えました。その時の電話で彼に「次回の電話で結果を伝えます」と言われました。その時の私は、初めて論理的に、でも自分の気持ち英語で伝えられたことに少しの満足感を得ていました。これで落ちても今までやってきたことは無駄じゃなかったと思うことができたのです。
そしてRobertとの次の電話ではいきなり「東京からシカゴまでの航空券とシカゴでの滞在先を用意したから、1週間後の出発だけど来れる?」との言葉から始まりました。あまりの決断の速さと思ってもみなかった言葉に、「なぜ私を選んでくれたのか」ということを聞きました。彼は「僕たちは純粋に君と働いてみたいと思った。それだけだよ」と答えてくれた後に、今でも忘れられない言葉ですが「君はリスクを取った。それに応えて僕たちもリスクを取るまでだ」と言ってくれました。
KOVAL蒸留所を立ち上げた夫婦とは
KOVAL蒸留所は、CEOであるRobert Birneckerと妻でありPresidentであるSonat Birneckerのたった2人で2008年、禁酒法初となるシカゴでの蒸留所を立ち上げました。Robertはアメリカのオーストリア大使館にて副報道官、Sonatはオックスフォード大学といった名門校を卒業し、アメリカの大学で大学教授として教鞭を執っていました。二人はその職を離れ、シカゴで現在の蒸留所を立ち上げました。
現在は蒸留酒の未来の舵を取る人物としてアメリカでも広く知られています。たった2人から始めたという背景があり、彼らは蒸留所を開くとき、リスクが伴うと分かっていても家を買うよりも蒸留器を買ってシカゴに移り住んだそうです。この経験を持つ彼らだからこそ、私を選んでくれたのではないかと思っています。そして「KOVAL」とは何か新しいことをする人、「先駆者」を意味します。突飛な行動をする私にもぴったりだと言ってくれました。
これはスコットランドから日本へ帰国した4カ月以内に起きたことでした。そして、この蒸留所で働くために、単身渡米。シカゴの空港に一人で降り立ち、空港まで迎えに来てくれたRobertと初めて会い、握手をし、始まったKOVALでの時間。そこで現在も、アメリカ・シカゴにある蒸留所「KOVAL Distillery」にて日本市場を担当しています。
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