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[ liberal arts-大学生の常識 ]

AIブームだけでは語れない
大人の数学教室がいま熱い

AIブームだけでは語れない 大人の数学教室がいま熱い

 「ロマンティック数学ナイト」と名付けたイベントが4月末に東京・西麻布で開催された。ミラーボールがきらめく地下のライブ会場。数学好きが次々とステージに上がり、約5分(100π秒≒314秒)で数学についてプレゼンテーションする。190人ほど集まった観客も数学に関心がある人ばかり。友達同士、家族連れ、あるいは一人で訪れ、飲み物と軽食を手に壇上のトークを楽しんでいた。企画したのは、大人のための数学教室を営む小さな企業、和から(東京・渋谷)の堀口智之社長だ。

お笑い数学教師や東大数学科卒のピアニスト

 数学好きがこんなにいるのかと驚かされた。学生から年配の方まで、女性も3分の1以上を占めている印象だった。集まった人数の多さ以上に意外だったのは、陽気で明るい空気が充満していた点だ。

 イベントは、お笑い数学教師のタカタ先生らの司会で進行、学校や学習塾の教師、研究者、学生ら、数学が好きで数学について語りたくて仕方のない人たちが、数学の魅力や数学との出合い、自分が面白いと考える数学の問題など思い思いに発表した。

ロマンティック数学ナイトで、タカタ先生の周囲に参加者が集まって数学談議

 例えば、数学好きコミュニティーでは有名な一人、中島さち子さん。国際数学オリンピックで金メダルを勝ち取った、日本人ではただ一人の女性。東京大学理学部数学科卒で、現在はジャズピアニストとしてバンド活動を展開している。中島さんは数学と音楽の魅力について語った後、会場から無作為に指定された数字を音階にあてはめ、その場で即興演奏をし、大きな拍手を得ていた。

 「議論や討論ではなく、数学のロマンを語り交流する場をつくりたかった」と堀口智之さんは話す。その点では大成功だったようにみえる。

「学び直したい」 個人指導コースに大人400人

 和からは、堀口智之社長が5年前に設立した。現在、東京・渋谷に2教室、新橋と大阪にそれぞれ1つずつ、計4教室を持つ。講師がマン・ツー・マンで教える個人指導、「フェルマーの定理」や「リーマン予想」などテーマごとに十数人の受講者を対象にする講義、さらには企業や団体向けの数学や統計学のセミナーなどを展開する。定期的に個人指導を受ける人が400人近くいる。企業向けのセミナーもビッグデータや人工知能(AI)ブームを背景に盛況だという。専業のスタッフは10人ほどだが、非常勤の講師を40人ほど抱えて対応する。

数学の魅力についてプレゼンテーションする中島さち子さん

 ちなみに社名は足し算の「和」から始めるという意味でもあり「わからない」ことが学びの出発点になるという意味でもあるという。

 堀口さんは山形大学で物理を学んだ後、学習塾の講師などで働いている時に、大人のための高校数学の本がベストセラーになっていることを知った。試みに大人を対象にした数学の個人指導を始めたところ、1年ほどで二十数人の受講者に巡り会い、事業化を決めた。講師を募集すると、大学名誉教授から趣味で数学を研究している人たちまで多様な人材が集まった。

 「数学を大人になってから学び直したい人がたくさんいて、数学の面白さを伝えたいと思っている人もたくさんいることに気がついた」と話す。

成績優秀なのに数学が嫌いな日本の若者

数学への苦手意識克服で個人指導に通う人も多いという(和から提供)

 それにしても400人が個人指導を受けているというのは驚きだ。専任講師の一人、石井良平さんによると「動機は大まかに言って3通りある」という。まず仕事の必要から統計学や高等数学を学ぶ必要が出てきた人がいる。次に数学が趣味で、難解な数学的世界に浸り難問に挑戦したい人がいる。そして「数学への苦手意識を克服したいと考える人も予想以上に多い」そうだ。

 国際的な学習到達度調査で日本の中学生の数学の成績は世界でトップクラスだ。数学がよくできる。しかし数学が嫌いだと感じている子どもたちが諸外国に比べて多いとされる。数学に対して苦手意識や嫌悪感すら抱いてしまう傾向がある。

 なぜだろうか。堀口さんはこう考える。

 「学校で教えられる受験のための数学では、試験の問題を解けるかどうかに価値が置かれる。解けた人は面白いと感じるかもしれないが、解けない人は面白いとは思えない。数学の面白さは試験問題を解ける、解けないとは別のところにあるはずだ」

受験数学を超えたところに多様な魅力

 数学は実社会で現実の問題を解決するのに役立つ道具である。学校の数学は試験のための数学であって、数学が役に立つ、便利なものだとの実感が今の学校教育では持つことができない。

堀口智之・和から社長

 また一方で、社会や世界の仕組みを知るための一般常識として、数学的なものの見方、考え方の大切さも学校では十分に教えられていない。例えば、微積分。実社会において微積分を使って問題を解く機会に巡り合う人は多くはないだろう。だから解き方そのものについてすべての人が精通する必要はないが、微分や積分の背後にある見方や考え方を身につけることは、現代社会を生きていくうえで決して損になることはない。

 数学の持つ多面的な価値を日本の学校教育は子どもたちにわかるよう伝えていないのではないか。

 和からで学ぶ人や教える人、イベントに参加する人たちはそれぞれに学校での数学に飽き足らなかった人たちであり、受験数学を超えて数学の多様な価値と魅力に魅せられた人々だといえる。

取材を終えて プログラムのスキルより、まず数理的な思考力
 情報通信技術の急速な進歩が社会や産業を変えるといわれる。それを「第4次産業革命」と呼び、必要な人材を育てるため政府は理数・情報系教育の強化や小学校でのプログラミング教育に力を入れるという。方向性は間違っていないが、何のために学ぶのかという観点がおろそかだと、思わぬ弊害を招きかねない。
 政府や産業界が望むのは、情報機器やデータを活用し、問題を発見し解決策を見いだす力を備えた若者の育成だろう。米アップルの創業者、スティーブ・ジョブズ氏をはじめ有力ベンチャー企業のトップはみなプログラマーであるのは確かだ。
 大事なのは、プログラミングのスキルや教科書の数学の問題を解く力ではない。数理的にものをみて判断できる能力だ。それを教えることが日本のいまの教育体制でできるのだろうか。できないとすれば、どうしたら可能になるのか。その道筋を示さず、ただスキルの教育だけにとどまれば、かえって学力の低下をもたらす恐れがある。
 すべての若者がベンチャー創業者になるわけではない。微積分の持つ意味といった数学の背後にあるものの見方や考え方を子どもたちに浸透させることも大切だ。数学の多面性や子どもたちの多様性を重視した改革でなければならない。堀口さんたちの活動を知るとなおさらそう思わざるを得ない。

(編集委員 滝順一)[日経電子版2016年6月6日付]

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