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初代首相が消えた?
インドで進む教科書の右傾化

初代首相が消えた?インドで進む教科書の右傾化

 インド各地の小中学校、高校で使う教科書の記述で、右傾化が目立ち始めている。改訂の際の「うっかりミス」を装うケースもあり、狙いは一見わかりづらいが、「モディ首相の与党が支配する州」で、「ヒンズー至上主義的な改訂」が起きている点で共通する。ヒンズー教徒のための排他的な社会づくりをめざす与党の支持母体が、影響力を行使し始めたとの見方が広がっている。

 インド西部ラジャスタン州の公立校で使う社会科の教科書から、初代首相ネールに関するすべての記述が削除された。世界的に知られる「インダス文明」の名称も、ヒンズー教の女神の名を冠した「サラスバティ文化」に書き換えられた。インダス文明はヒンズー教が確立する前の文明であるにもかかわらず、だ。

 ムンバイが州都の西部マハラシュトラ州では、小学6年生のヒンディー語の教科書に掲載した憲法の前文で、用語のすり替えが発覚した。「我々インド人は......宗教とは関係なく、民主的な共和国をつくる」とあるくだりで、「宗教とは関係なく」という言葉が「宗派とは関係なく」に替えられた。人口の8割を占めるヒンズー教徒に加え、イスラム教徒やキリスト教徒も住む国家として団結しようと呼びかける本来の内容が「ヒンズー教の中の宗派間では仲良くしよう」と矮小(わいしょう)化されたのだ。

少女が持つ教科書に掲載した憲法前文で、州政府は用語を微妙に変え、ヒンズー教以外の宗教を含まない表現にしてしまった(マハラシュトラ州ムンバイ)

 連邦制のインドでは、教科書の内容やカリキュラムの決定権は州政府にある。ラジャスタン州政府は、ネール初代首相に関する記述は元に戻すと約束した。だが記載しなかったのは「失念のため」と説明。リベラルな市民の間では「忘れる類いの話ではない。ネールがライバル政党の出身だから削除したのだ」と批判が強まっている。

 もっと問題なのは「ヒンズー教徒でなければインド人にあらず」といった一方的なイデオロギーを、州政府が率先して浸透させようとしていることだ。ラジャスタン州も、マハラシュトラ州も、支配政党はモディ首相と同じインド人民党(BJP)だ。その支持母体の民族義勇団(RSS)が掲げるヒンズー至上主義的な理念を、各州のBJP政権が競うように教科書に取り込んでいる。

「インダス文明」は「サラスバティ文化」に

 「ヒンズー教の神話を史実として記載しているのは意図的な事実誤認。歴史を創作しようとしている」と、デリー大のアプールバナンド・ジャ教授(53)は憤る。「インダス文明」を「サラスバティ文化」に"改名"した根拠としてラジャスタン州政府が挙げたのは「ヒンズー教の神がインダス川の河岸を巡礼したとする叙事詩」の存在で、論理性に欠ける。ジャ教授はラジャスタン州の教育関係者らと有志グループを結成し、抜本的な再改訂を求めるが、州政府が要求をのむかは見通せない。

 「こんな憲法を教科書に載せたら、子供だけでなく、親も誤った情報をうのみにしかねない」と危機感を募らせるのは、ムンバイのスラム街に住む9歳児の母親スーダ・バルマさん(35)。本人はヒンズー教徒だが、周囲にはイスラム教徒も多く住む。両教徒の住民が互いに殺し合い、映画『スラムドッグ$ミリオネア』の題材にもなったコミュナル暴動がムンバイで起きたのは1993年。バルマさんの幼少期で、インドにとって決して遠くない、暗い過去だ。

 実は、教科書の右傾化が10年以上前から始まっていた別の州がある。モディ首相が13年間、州首相を務め、高成長を達成したことで知られる西部グジャラート州だ。

 女性・教育問題で政策提言するニューデリーのニランター財団が、5州の教科書を比較分析した著作によると「グジャラート州はヒンズー至上主義化の実験室」だった。社会科の教科書では、神話と史実を混同し、好戦的なナショナリズムを是とする内容も盛り込んでいた。

モディ首相のお膝元で進むヒンズー至上主義

 同州は今もBJPの支配下にあり、「実験」は成功したとみてよい――。2013年にBJPの支配下に戻ったラジャスタン州、14年に政権を奪取したマハラシュトラ州で教科書改訂に踏み切った読みは、そんなところだろう。

 BJPやRSSは、どんな社会を目指しているのか。BJPの国家総書記で、RSSの幹部でもあるラム・マダフ氏は取材に対し「人口の8割がヒンズー教徒だ」「ヒンズー教は宗教ではなくインドの文化だ」などと強調し、他宗教の存在は表向き許容しつつも、ヒンズー教徒が優位な社会を当然視する。ムンバイの社会運動家は「ネールやガンジーが説いた『非暴力の考え方のせいで、インドは中国に国力の面で敗れた』とRSSは考えている」と指摘する。

 BJPは4~5月、東部アッサム州の州議会選で勝利し、支配州は全土の3分の1を超えた。BJPが勢力を伸ばせば、モディ政権は安定し経済政策を進めやすくなる。インドに投資する諸外国の企業や政府もBJPの躍進を歓迎する。一方で、BJPの躍進はRSSのヒンズーナショナリズムの拡大につながり、社会不安の脅威が増してしまう。全体でみればマイナス面よりプラス面の方が大きいと見る向きも多かろう。

 だが、教科書の改訂に表れるRSSの本音は、同じヒンズーナショナリズム的な言動の中でも、昨年各州が導入した「牛肉禁止令」の比ではない。経済、安保両面でインドに接近する日米欧を将来、深い落とし穴に突き落とすことになるかもしれない。なにしろ、今回改訂されたラジャスタン州の高校生向けの社会科の教科書には、排他的ナショナリズムの「大先達」、アドルフ・ヒトラーを称賛する記述が新たに加わったのだから。
(ニューデリー支局 黒沼勇史)[日経電子版2016年6月17日付]

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