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羅針盤NEO(14)日本でも、ついに量子コンピューターの販売が開始される

村上憲郎 authored by 村上憲郎 元グーグル米国本社副社長兼日本法人社長、前名誉会長
羅針盤NEO(14) 日本でも、ついに量子コンピューターの販売が開始される
写真提供:ハーディス株式会社

 本年8月1日、コンピュータシステム構築のコンサルティングやプロジェクトマネジメントを手掛ける、ハーディス株式会社(東京・港 荒牧利充代表取締役社長)は、世界に先駆けて量子コンピューターの製造販売を唯一行っているカナダのD-WAVE Systems社と、その量子コンピューターの日本国内販売について提携したと発表した。この量子コンピューターは、この連載の第6回「『あくまで機械にすぎない』量子コンピューターから読み解く」で紹介した量子式アナログコンピューターと呼ばれるタイプの量子コンピューターである。

 さて、この発表に先立つ本年5月31日、カナダ大使館でD-WAVE Systems社の紹介を中心としたシンポジウムが開催された。シンポジウムには、同社の量子コンピューターに採用された量子アニーリング方式の発案者である東京工業大学の西森秀稔教授も招かれ、量子アニーリング方式について解説された。

 私も30年以上も前のことであるが、カナダ大使館が新築された際に、その図書館管理システムを、当時勤めていた米国のコンピュータ会社DEC社のVAXと呼ばれるコンピューターで構築するプロジェクトに携わったことと、その後、DECの米国本社の人工知能技術センターに転勤となった時、D-WAVE Systems社の現CEOであるVern Brownell氏と同僚であったことと、日本に帰国後、カナダの通信機器会社ノーザンテレコム社の日本法人の社長を務めていた関係でカナダ大使館に良く出入りしていたことと、D-WAVEの量子コンピューターの最大のユーザーであるGoogleに勤めていたことがあることと、更に現在、西森先生がお勤めの東工大の学長アドバイザリーボードの委員を務めているということもあり、シンポジウムの一部の司会を、相変わらずの下手くそな英語でしたが、務めさせて頂く光栄に浴させて頂きました。

Googleも独自に開発中

カナダのD-WAVE Systems社(写真提供:ハーディス株式会社)

 さらに本年6月末には、Googleのロサンゼルスオフィスで、GoogleとD-WAVEの共同のシンポジウムも開催され、西森先生も招かれて参加されたシンポジウムでは、Googleが独自に開発中の量子アニーリング方式の量子コンピューターの概要が紹介され、その本体の一部も公開されたと、参加した知人から報告を受けた。量子式アナログコンピューターというタイプではあるが、いよいよ、量子コンピューターが実用化・商用化の段階を迎え始めたという証左であろう。

 一方、量子式デジタルコンピューターの方は、その数理物理学的理論こそ、量子式アナログコンピューターを支える西森先生の量子アニーリング方式の発表された1998年に先駆けること13年前の1985年に、英国オックスフォード大学のデビッド・ドイチェによって発案され、1992年には確立されているが、その具体的物理実装の困難さによって、その実用化、商用化の見通しは、残念ながら未だ立っていない。

 この連載の第12回「量子力学を『英語で』勉強してみよう!」で、ネット上で公開されているStanford大学のLeonard Susskind教授の「Theoretical Minimum」と題された物理学の講義を視聴されることをお薦めした。中でも、いよいよ実用化・商用化の段階を迎え始めた量子コンピューターを理解するためにも、Quantum Mechanics(量子力学)の視聴を強くお薦めした。

 本連載の第7回「コンピューターを言語から解く~スマホの中で起きていること」で詳しく解説したように、現在のコンピューターの主流である電子式デジタルコンピューターは、0と1を表すビット(bit: binary digit、2進数の1桁)を電子回路として表現することによって実現されている。

 一方、量子デジタルコンピューターは、|0>と|1>で表されるqbit(quantum bit:キュービット、量子ビット)を量子ゲートと呼ばれる量子回路で操作することによって実現されるとされる。電子式デジタルコンピューターのbitの0と1は、2進数の1桁、つまり、数(スカラー)であったが、|0>と|1>で表されるqbitは、ケットベクトルと呼ばれる量子状態を表現するベクトルであって、数(スカラー)ではない。|0>は(1,0)、|1>は(0,1)という2次元のベクトルとされる。

 ここでは、横書きという表記の関係で行ベクトルで書いたが、通常は、縦書きの列ベクトルとされる。この際ついでに言えば、<0|、<1|というものも定義されていて、ブラベクトルと呼ばれる。これらは行ベクトルで、<0|=(1,0)、<1|=(0,1)である。ブラベクトルとケットベクトルとの間には、内積と呼ばれる演算が定義されており、<0|0>=1,<0|1>=0、<1|0>=0,<1|1>=1、となる。線形代数の知識のある読者は、これまで慣れ親しんできた「ベクトルの内積」と同じだと納得されると思うし、<0|と|1>、<1|と|0>とが直交しているということも容易に理解できたであろうと思われる。

 さて、ケットベクトルにより表現される量子状態とは、α|0>+β|1> (α、βは、複素数)と表される。この式の意味するところは、量子状態とは、|0>と|1>のどちらとも言えない、謂わば、|0>と|1>との「重ね合わせ」状態であるということである。つまり、電子回路で実現されている電子式ディジタルコンピューターのbitの0と1は、確定した数(スカラー)であったが、量子ゲートと呼ばれる量子回路で操作される量子状態とは、α、βによって「割合」が決まる、0と1のどちらともつかない「重ね合わせ」状態ということである。勿論、α=0,或いは、β=0、である場合は、それぞれ、β|1>、或いは、α|0>という状態が確定しているということになる。ちなみに、|1>とβ|1>、|0>とα|0>は、状態としては同じとみなし、α=0,でかつ、β=0、の場合は、「状態が無い」とみなすということを付け加えておきますが、興味のある方以外は、今日の段階では無視して下さい。

量子デジタルコンピューターで期待されるの高速性

 それよりも大切なことは、このような「重ね合わせ」状態という量子状態を量子ゲートと呼ばれる量子回路で操作することによって、1回の計算で、あたかも、複数の計算を同時に並行して実行したかの如き量子並行計算が実現されるということである。このことが、量子デジタルコンピューターの高速性を期待させる根拠である。量子デジタルコンピューターの高速性への期待を一気に高めたのは、1994年の米国ベル研究所のショアによる整数の因数分解のアルゴリズムの発見であった(アルゴリズムについては、本連載の第2回「「機械のスマート化」を怖がってはいけない~競争に負けない働き方とは」を参照されたい)。

 整数の因数分解は、整数の桁数の増加にともなって計算時間が膨大なものとなり、例えば、1万桁の整数の因数分解には、現在の最も高速な電子式デジタルコンピューターをもってしても、1000億年という現実的でない時間を要す事が判っており、このことが、現在、インターネットで使われている公開鍵暗号方式の安全性を担保している。しかし、ショアの整数の因数分解のアルゴリズムを使えば、1万桁の整数の因数分解も数時間で計算可能と想定されており、もし量子デジタルコンピューターが実現すると、公開鍵暗号方式の安全性が保てない事態が出現するいということで、一気に注目を集めることとなったのであった。

ディーウエーブの量子コンピューター(写真提供:ハーディス株式会社)

 しかし、そうなったとしても、実は心配は要らない。量子デジタルコンピューターを実現する技術は、一方で、量子暗号というものも実現する技術ともなるからである。その技術の基礎理論として、「量子もつれ=量子エンタングルメント」という量子状態を紹介したいところではあるが、その典型としてのBell状態やGHZ状態を解説するためには、まず、ケットベクトル同士のテンソル積というものを紹介しなければならないので、次の機会ということにさせて頂く。興味のある方は、上坂吉則著「量子コンピュータの基礎数理」コロナ社刊に詳しい解説があるので挑戦されたい。

 挑戦と言っても、前にも申し上げたように、「それは、せいぜい、0と1と虚数単位iの3つの内2つ同士(同じもの同士を含む)の掛け算を、ある順序に従って行うだけですので、数学だと思わずに、単なる記号操作だと思えば、文系の方でもついて行ける内容です。その結果として、これからの社会に大きな影響を持ってくると思われる量子コンピューターも理解できるのですから、ぜひ、」挑戦されることをお勧めいたします。ご健闘をお祈りします。