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ソフトバンクはなぜアームを買うのか

ソフトバンクはなぜアームを買うのか

 ソフトバンクが英半導体設計会社のアーム・ホールディングスを約3兆3000億円で買収するという発表が話題となりました。日本企業による外国企業のM&A(企業買収)では最高金額です。ソフトバンクは米通信大手、スプリントの買収でも注目されましたが、今もその経営再建に苦労しています。孫正義社長は「あらゆるものがインターネットにつながるIoT時代をリードするため」と買収の狙いを話しますが、なぜ今買う必要があったのでしょうか。

 「今回の買収には歴史的なものを感じる。ソフトバンクが手掛けた買収の中でも最も価値が高い」。2016年度第1四半期の決算で記者会見した孫社長は7月28日、アームの買収について改めて正しい経営判断だったことを強調しました。買収発表を受け、急落した株価は少し戻していますが、市場で十分評価されていないことを意識しての発言だといえます。

 今回の買収が理解されなかったのにはいくつか理由があります。まずアームそのものが一般の人にはなじみが薄かったことが挙げられます。米アップルや米インテルのように自ら製品を製造しているわけではなく、半導体メーカーに回路を売る「黒子」に徹してきたからです。スマートフォン(スマホ)など携帯端末市場で95%のシェアを持ち、回路基板には「ARM」のロゴが入ったチップが多数埋め込まれていますが、スマホの中まで開けて見る人はそういないからです。

買収金額と収入との間にかなりの開き

決算発表でアーム買収の狙いを話す孫社長

 2つめの要因は買収金額の大きさにあります。製造部門がないため、営業利益率が50%を超す超高収益企業ですが、売上高は日本円で1800億円くらいの会社です。「3兆円を回収するのに70年かかる」といわれても仕方ありません。孫社長は「新製品の投入で今後は2次曲線で伸びる」と強調しましたが、買収金額と収入との間にかなりの開きがあるのは否めません。

 3つめの理由には約1兆8000億円をかけて買収したスプリントの立て直しがまだ道半ばということが挙げられます。孫社長はアームを買収するため、中国のアリババ集団やフィンランドのゲーム会社、スーパーセルなどの株式を売却、約2兆円を調達しましたが、一部がスプリントのインフラ整備にあてられるという見方もありました。スプリントの先行きが見えないうちに全く異なる企業に3兆円もの資金を投じることに違和感があったといえるでしょう。

 では孫社長の戦略には成算があるのでしょうか。先ほどの疑問点をそれぞれ点検してみたいと思います。

 まずアームの実力についてです。アームの前身は低消費電力型のマイコンを開発した英国のエイコーン・コンピューターズというベンチャー企業にさかのぼります。命令を簡素化することで性能を上げた「RISC(リスク=縮小命令セットコンピューター)」と呼ばれる技術です。そこに携帯情報端末の「ニュートン」を開発していた当時のアップルコンピュータがマイコンの共同開発を持ちかけ、米半導体会社のVLSIテクノロジーと3社で1990年に立ち上げたのが「アドバンスト・リスク・マシーンズ(ARM)」です。いわば、はじめから携帯端末のために生まれてきた会社でした。

 アームが特徴的だったのは、当時、英国には半導体メーカーがなかったことから、回路の設計に徹し、海外メーカーに図面をライセンスする事業モデルを確立したことです。パソコン向けの高機能な半導体を自社で一貫生産するインテルとは真逆の戦略をとったわけです。半導体メーカーも自社で設計するより、安く図面を借りたほうが効率がよかったため、パソコン以外の携帯端末や情報機器などに広く普及することになりました。

世界の情報機器を支配する「黒子」

 追い風となったのがスマホやタブレットの登場です。バッテリーを長持ちさせるにはインテルよりARMの技術を使ったほうがよく、アップルや韓国のサムスン電子などはARMベースの半導体を採用しました。「スナップドラゴン」で知られる米クアルコムの半導体もARMがもとになっています。こうして気がつけば「黒子」が世界の情報機器を支配する構図となっていたのです。

 アームはまた2004年から新技術の「Cortex」を投入しました。複数のコア(中枢回路)を搭載することで高機能化と低消費電力化を同時に実現したのです。これを携帯端末やサーバー向けの「Cortex-A」、自動車など制御系向けの「Cortex-R」、産業用やウエアラブル端末用などの「Cortex-M」として、シリーズで展開しました。「A、R、M」は社名の頭文字です。孫社長が「2次曲線で成長していく」と指摘したのは、こうしたラインアップにより、IoT向けの様々な要請に応えられるようになったからというわけです。

 日本でも理化学研究所と富士通が開発した国産スーパーコンピューター「京」の次のスパコンにはARMの技術を採用する方向で話が進んでいます。欧州連合(EU)の科学技術戦略「ホライズン2020」のスパコン計画にも採用されています。携帯端末の普及でクラウドの需要も高まっており、今後は携帯端末だけでなく、データセンター側にもARMの技術がもっと使われる見通しです。

 2つめの疑問点は買収金額の大きさですが、これにも上記の説明が答えになるかと思います。昨年のアームのチップ出荷数は148億個となり、単価こそ安いですが、「インテルの40倍」(孫社長)になっています。今後、世界中で様々なIoT機器が動き出せば、現在の売上高が何倍にも膨れ上がるということは容易に想像がつきます。70年かけなくても回収は十分可能でしょう。

 孫社長は「買収資金の7割は手元の現金でまかなっており、含み益も考えると、心配はない」と強調しています。ソフトバンクグループはスプリントの買収などで約7兆円の有利子負債を抱えていますが、保有するアリババ集団やスプリントなどの株式の時価評価額は9兆円を超えており、仮にアームを売却するようなことになっても財務上は問題ないというわけです。

 3つめのスプリントの業績ですが、ドイツテレコム系のTモバイルUSに抜かれ、米業界4位に転落したものの、今年第1四半期には過去5年間で初めてMNPの契約純増数が17万件のプラスに転じました。2%以上あった解約率も1.39%に下がり、「底は打った。あとは上昇に転じるのみ」と孫社長は強調しています。

 では「なぜ今なのか」ということですが、今年はまさに「IoT元年」と呼べる年にあたります。日本でもドイツの「インダストリー4.0」にならい、第4次産業革命のかけ声が高まっています。また英国が国民投票でEU離脱を決めたことから、ポンドが一時的に下落したことも見逃せません。しかもインテルやクアルコムなど半導体大手がアームを買収しようとしても独禁法上、難しい問題があります。買収合戦に発展せず「無風状態で買収できる千載一遇の機会」(孫社長)だったというわけです。

 では、すべては孫社長が描いたシナリオ通りに行くのでしょうか。

還暦前の孫氏にみえる焦り

アームの買収が成果を生み出すには、孫社長自身が情熱を持って経営にあたることが必須条件だ

 ソフトバンクはこれまでも米出版社のジフ・デイビスや「コムデックス」の米見本市運営会社、それに日本テレコムや英ボーダフォンの日本法人など様々な企業を相手に買収や出資を行ってきました。中でも米ヤフーやアリババ集団への投資は大きな成功を収めました。一方で全国朝日放送(現テレビ朝日ホールディングス)や日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)などの株式取得による放送や金融事業への進出は失敗に終わっています。

 また孫社長は自らの後継に指名したニケシュ・アローラ氏を退任させるなど、還暦を前に少し焦りのようなものも見受けられます。スプリントと一緒にしようとしたTモバイルUSの買収が米当局から認められず、通信分野での展開が阻まれたことも本人には不本意だったに違いありません。その意味ではアームの買収は新たな挑戦といえますが、成果を生み出すには、孫社長自身が引き続き情熱を持って経営にあたることが必須条件だといえるでしょう。

 孫社長はアームの買収が安泰である証左としてソフトバンクが生み出す年間約5000億円のキャッシュフローの存在を指摘しました。かつてのソフトバンクなら、その分をユーザーに還元し、新たな顧客獲得に挑んだはずですが、今回は別の形に使われることになります。今回の大型買収が、経営者の自己満足のためではなく、社員やユーザー、そしてIoT戦略を進める日本経済のためにもなるよう、孫社長には上手にカジ取りをしてほしいものです。
(編集委員 関口和一)[日経電子版2016年7月31日付]

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