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「違い」を愛せる社会に(3)「自分は日本人」だと思えなかった小学校時代

「違い」を愛せる社会に(3) 「自分は日本人」だと思えなかった小学校時代
authored by 岩澤直美Culmony代表、早稲田大学3年

「うわあ、外人菌がついた!」

 小学校の運動会の練習中、「前へならえ」をして前の子に手がぶつかってしまった時、その子は後ろを振り返って言い放ちました。それ以来、「外国人菌がうつる」という理由で教室で私の机に触れることを極端に避けられたり、忘れた消しゴムを貸してもらえなかったりすることがありました。その度に、「やっぱり私はみんなとは違うんだなぁ...」と落ち込むことが頻繁にありました。

 私が自分の見た目で一番嫌いだったのは、目です。チェコ人の母の遺伝で、私の目は幅の広い二重です。色もみんなとは違って、薄い茶色でした。すると、クラスでは「外人の目って、ガチャピンみたいだぞ!」と話題になり、一時期は「ガチャピン、ガチャピン」と馬鹿にされていました。ガチャピンには大変失礼なことですが、それが悔しくて、人と目を合わせるのが不安になったことを覚えています。

 私は幼いころから世界と日本を行き来してきました。チェコ、日本、ハンガリー、ドイツといった国々で育ち、引越し回数は10回以上。ありがたいことに、自分の人生においては、常に「移動」をしながら多様な文化や人に触れられる環境が当たり前にありました。「世界はこんなにも多様性に溢れていて、みんな違っているからこそ人生は楽しく美しい」――。今でこそ、そう思えていますが、振り返ってみると、この考えにたどり着くまで長い道のりがあったように思います。

友人に恵まれた幼少期 大阪から異国の地ハンガリーへ

 小学校に入る前の幼少期の記憶というと、思い出すのは家の近所で仲のよかった友人とおままごとをしたり、走り回ったり、歩いて一緒に幼稚園にいったりしていたことです。幼稚園では、大好きな先生の近くにいたくて喋りにいったり、暑い日も補助輪のついた一輪車を友達とひたすら練習したりしていました。そして、家族といった沖縄で、弟とザリガニを捕まえたり、砂浜で近くにいた男の子と遊んだりしたことも鮮明に記憶に残っています。この時期の記憶に、「人と違う」なんて意識したことはありません。自分のアイデンティティーについて考えたことも、悩むこともありませんでした。

 幼稚園を卒業する前に、父の転勤でハンガリーに引っ越すことになりました。私の母はチェコ人ですが、物心ついた頃からはずっと日本語でコミュニケーションを取ってきています。日本語で育ってきた私が、ハンガリーで英語の幼稚園に通い始めた際は、言葉がわからず、ただ泣いて過ごしていました。言語がわからず、「自分はここにいていいのか」という不安を抱いていました。言葉に関係なく遊べるのが子どもの才能だといいますが、私の場合は、友達と心から打ち解けて遊ぶことができなかったのだと思います。

 この不安は少しずつ薄れていきました。2カ月もしないうちに、少しずつ英語が話せるようになってきたからです。帰宅早々、"I am home! This is my home!" と覚えたての英語をうれしそうに披露していたみたいです。1年後に卒園し、アメリカ系の国際学校に入学しましたが、ここには英語がネイティブの人もいれば、あまり出来ない人もいました。いろんな人種、いろんなバックグラウンドを持つクラスメイトがいました。お互いの国や家族のことをクラスで紹介しあったり、お家に遊びに行ったりしながら、「みんな違う文化と考えを持っていることが当たり前」だということを実感し、自分が受け入れられている安心感の中で学校に通っていました。

上履きには泥、机には悪口 馴染めない小学校での試行錯誤

 幼少期の記憶とは違い、小学校の記憶には、「孤独」が強く残っています。ハンガリーでは計2年過ごし、日本には小学校1年生の夏休みになるころに帰国しました。言語も地域もよく知っている場所だったため、特に不安を感じることはなかったのですが、クラスに入って早々、仲間はずれにされるという想定外の状況に戸惑いました。「外人! はやく自分の国に帰りいーや」「外人やのに、英語ちょっとしか喋られへんの?」「なんで茶髪なん。染めたらあかんねんで」。私が今まで経験していた「多文化」が、この環境では認められないものだと気付きました。

 高学年にもなると、裏で悪口をいわれたり、体操服がゴミ箱に捨てられていたり、上履きの中に溢れるように泥が入っていたりする事件もありました。ですが、「教師や親に相談しても、迷惑をかけてしまうかも」「私がちゃんとクラスの雰囲気についていけなかったからだ」と、怒られてしまうのではないかという不安が膨らみ、徐々に一人で乗り越えていく力を身につけていったのだと思います。

 この時期は、「自分は日本人」だと心から思えませんでした。外国人として接され、扱われ、私自身も「自分が日本人らしくない」ことが理由で周りと馴染めていないような気がしていました。せっかくハンガリーで習得した少しの英語も、何年も日本で過ごせば忘れてしまいます。「その外見で、日本語しかできへんの」とバカにされるたびに悔しい気持ちになりながらも、継続して学べる環境はありませんでした。周りとは違う自分の見た目も、言語力の低さも、すべてコンプレックスでした。

私が感じた水泳の魅力

 私の救いは水泳でした。この頃、オリンピック選手になるという夢を抱きながら、平日は毎日トレーニングがあり、週末は大会に出る、という生活を送っていました。もともと泳ぐことが好きだったのですが、何より、様々な悩みから解放させてくれることが、私にとって救いでした。

 チームのスポーツとは違い、個人競技なので、必要以上のコミュニケーションは必要ありません。水中は、いろんな悪口や嫌味が聞こえない、私だけの場所です。厳しい練習のおかげで、泳ぎながらアイデンティティーのことで悩む余裕もありません。練習の後は、疲れてすぐに寝てしまいます。水泳を続けていたおかげで、この期間を乗り越えられたように思います。

 「あと少し、あと少し」。こう自分に言い聞かせながら、父の転勤を待ち伏せていました。また海外の国際学校で、「違い」で悩まない自由な生活を送りたい――。こう願いながら、小学校の6年生まで日本で過ごしました。そして、小学校最後の夏休みに、家族でドイツに引っ越しました。希望を胸に。