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全脳アーキテクチャ若手の会!(4)ドラえもんを作りたい!!~小学生のぼくが夢中になったこと

大澤正彦 authored by 大澤正彦全脳アーキテクチャ若手の会設立者・フェロー、慶應義塾大学大学院理工学研究科後期博士課程
全脳アーキテクチャ若手の会!(4) ドラえもんを作りたい!!~小学生のぼくが夢中になったこと

 「ぼく、大きくなったらガムやさんになりたい! ガムやさんになったらいっぱいガム食べられるから!」

 これが生まれて初めて持った私の夢でした。幼稚園にも入る前のころ。もちろん私にそんなことを言った記憶はありません。母がよくする昔話の1つです。聴くと、しばらくして好きなものが増えていった結果、その夢はスーパーのお店やさんへと変わっていったとか。

 次にできた夢は政治家でした。政治家になって世の中をよくしていきたい。そんなことを考えていたわけではありません。ただ、公園に立っている選挙ポスターを見て、自分の顔もここに載せてほしいと母にせがんだのでした。

 その次の夢は、小学校に入ってしばらくしたことできました。ドラえもんを作りたい。相変わらず子どもらしい夢だと自分でも思います。その次はというと......、実はまだありません。次がないといっても、夢がないわけではありません。今の夢はドラえもんを作ること。小学生のころと変わっていないのです。

 今回からは、私、大澤正彦がドラえもんを作りたいという夢を持ってから、全脳アーキテクチャ若手の会を立ち上げるまでのお話をしたいと思います。少し自分の話が長くなってしまいそうで申し訳ありませんが、お付き合いいただけたら嬉しいです。私は小さい頃からドラえもんが作りたくて、その夢はこれまでずっと自分の中にあり続けました。しかしながら、人工知能やロボットだけに集中した幼少期だったとは決して言えませんでした。

 小学校4年生の夏、ぼくの前には人生の岐路となる2つの道が現れました。そしてそれから中学校3年生までは、その両方の道を歩むことになりました。

夢中になった1つ目:最強のロボットを作りたい!!

 1つ目の道は、ある大学が主催していた小学生向けのロボットセミナーに参加したことから始まります。ある日、ぼくは母に新聞を渡されました。

 「小学生向けのロボットセミナーがあるって。行ってきたら?」

 これ以上ないくらいの刺激的な提案に、ぼくは迷うことなく参加することにしました。操縦型のロボットキットを組み立てて、自分なりに改造して、自分のロボットで戦うロボットコンテストに挑む。そんなセミナーだったと思います。

 ぼくは毎日、セミナーに行くのが楽しくて仕方がありませんでした。ロボットを組み立てるのは自分が思っていた以上に得意でした。改造するのも楽しくて仕方がありませんでした。自分なりに集めたパーツを使って、試行錯誤して、誰にも負けないロボットを作ることに躍起になっていました。ベイブレードの部品、お菓子の空箱、針金ハンガー、使い終わった乾電池。とにかく使えそうなものはすべてロボットの部品箱に詰め込みました。

 しかし、ぼくのロボットはまったく強くありませんでした。ロボットコンテストはあっけないほど簡単に負けて終わってしまったのです。悔しくて仕方がなかったぼくは、自分のロボットを強くする方法を模索しました。そして、たどり着いたのが電子工作でした。電子工作というのは、光や音に反応するセンサーや、ライト、モーターなどを組み合わせて作る工作のことです。例えば当時の私が作っていたのは、手を叩くと寄ってくるロボットや、人が自分の部屋の近くを通ると音で教えてくれる「ママが来たセンサー」などです。

ボクサーロボ競技大会

 電子工作を始めたきっかけは、ロボットが自動的に戦えば勝手に強くなると思ったからでした。そして何より電子工作は自分に合っていました。初めて父に秋葉原に連れて行ってもらって、電子工作のキットを買ってもらった日のことを今でも鮮明に覚えています。初めて電子工作に取り組んだその夜、私はものの1時間程度でキットを完成させて見せました。驚いた父の顔が忘れられず、嬉しくて、どちらかといえばあの顔が見たくて頑張っていたような気もします。

夢中になった2つ目:子役

 初めてロボットセミナーに通ったあの夏に、私はもうひとつ新たなチャレンジをしていました。芸能活動。といったら少し大げさかもしれないけれど、子役の声優として活動を始めていました。きっかけは、当時通っていたピアノの先生の紹介でした。先生の本業は歌で、ボーカルトレーニングやピアノの先生をしながら、ご自身も芸能関係のお仕事をしている方でした。そんな先生にある日、「歌ってみない?」と言われ、言われるままに自分の歌を録音してもらいました。

 そしてしばらくたったある日、見知らぬ人から突然連絡が来たのです。

 「矢沢永吉さんの全国ツアーで、コーラスをやってください」

 当時のぼくには矢沢永吉さんが誰なのかわかりませんでしたが、あの夏、確かにぼくは矢沢さんと同じステージに立っていたのを鮮明に覚えています。これ以来、ぼくは中学校を卒業するころまではいろいろなお仕事をさせてもらいました。テレビのCMや、バラエティー番組のタイトルコールなど、あの頃の経験は未だに自分にとって特別でした。

 中学校に入ってからの得意科目は音楽でした。ぼくが入学した地元の公立中学校は、合唱に特別力を入れていました。そして目立ちたがりの私がやりたいのは、指揮者でした。今振り返ると、中学校の音楽の先生には特別目をかけてもらっていたと感じます。合唱のイベントが近くなると、いつも指揮の練習に付き合ってもらっていたし、音楽の道に進むことを勧めてもらっていました。だからこそ、高校が決まった日、私はずっとお世話になってきた音楽の先生に進路を報告に行きました。「工業高校に進みます」と。

 中学生のぼくは、ドラえもんを作りたいというその夢に向けた道を歩むことを決めたのでした。やはり自分の中のドラえもんをつくる夢は特別で、何にも変えられなかったからです。それを証拠に、ピアノの先生に誘われて歌ったのが、当時のドラえもんのエンディングテーマだったくらいですから。