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インドネシアのお菓子屋さん(2)僕が海外起業を目指した理由

河越信太朗 authored by 河越信太朗PT. Omiyage Inc Indonesia COO
インドネシアのお菓子屋さん(2) 僕が海外起業を目指した理由

 こんにちは。第2回は僕の幼少期の経験と、高校まで田舎で育った僕がなぜ海外で、しかもキラキラしているITスタートアップではなく、製造販売という分野で起業したいという思いを持つに至ったのかについてお話させていただきます。

「優秀な経営者になりたい」と思った小学6年生

 僕は幼いころから「優秀な経営者になりたい」と思っていました。その理由は割と単純で、祖父を含め父方の親戚に会社を経営している人が多く、多分にその影響を受けていたのだと思います。小さい頃から頻繁に、祖父に連れられて会社の事務所に遊びに行ったり、地元にあるお店に行ったり、時には地元企業の社長さんや会長さんのもとを訪れたりしていました。

 親族の集まりではほとんどのオトナ達が経営者なので、今自社がどうなっていて、今後どうなるのか、それぞれの地元でどんな動きがあるのかについて話すことが日常でした。こうした姿を見て、世の中を自分事として捉え、自分の意志で物事を決定していく姿はかっこいいなという思いが植えつけられたのでしょう。

 忘れもしないのが小学5年生の頃。父と喫茶店に行った際、「俺がこの喫茶店を買ったら、お前ならどこを変える?」と聞かれたことです。そのとき僕がどのような答えを出したかはもう忘れてしまいましたが、「俺は常にこういうことを考えている」という一言から強い衝撃を受け、その後ふとした瞬間に「自分ならこのお店をどう改善するか、また自分ならこのサービスをどう変えるか」と考えるようになりました。

修学旅行で訪れたシンガポールでの大事故

 さて、次になぜ海外で仕事をしたいと思うようになったかに関するエピソードをお話しさせてください。僕の通っていた中学校は例年、英語学習の成果を確かめるため3年生の春に、シンガポールへ修学旅行に行くことになっていました。移動日だった1日目を終え、旅行が本格的に始まる2日目の早朝、運動部だった20人程度で早朝のランニングに出かけました。

 シンガポールは気候も良く、道も広いためランニングには最適でテンションも上がっていました。ホテルを目前にして特に仲の良かった5人の友人たちと、かけっこをしようということに。信号が青に変わった瞬間から走り出し、ホテルに1番に着いた人が勝ちというありがちなルールを決めました。ところが、走りだした瞬間、信号を無視したバスにまとめて轢かれてしまたのです。そのうちの1人はその後1カ月以上シンガポールで入院をするほどの重症となる大きな事故で、軽症だった残りの4人は丸1日かけて、病院での精密検査や警察の事情聴取を受けました。

 英語の先生や通訳の方に助けてもらいながらなんとか状況を説明したのですが、ホテルに戻ってからふと、この事故がもしプライベートな海外旅行で来ていたときに起こったら、自分では何もできないという無力感と、強い恐怖心を覚えました。当時、全くと言っていいほど勉強もしていなかったのですが、以後海外に行ったときに自分の意思を自分の言葉で伝えられなければいけないと強く思い、英語だけは勉強しました。

 おかげで大学に入ってからは留学生の友達も増え、休暇中に彼らの家を訪れたり、僕の地元を案内したりすることによって自分の触れられる世界が広がりました。いつしか大学の時にできた親友たちと一緒に仕事ができたら幸せだな、海外で働きたいなと思い始めました。

屈強な反骨精神と、インドネシアの御曹司との会話

 上記の経験から自分はいつか経営者になり、海外でも活躍する人間になりたいというイメージは持つようになったのですが、一方でいつ、何をするかに関しては長い間決めることができませんでした。その理由は、今となってはとても恥ずかしいのですが、人一倍プライドが高く、家族や親戚の仕事とは全く関係のない分野で起業し、成功しなければカッコ悪いと思い込んでいたためです。

 ずっと自分のアイデンティティーの外で何かをしようと考えていたため、学生時代はいろいろな事業の案を考え、信頼する社会人の方にその案を投げてはフィードバックをもらうということを繰り返していました。また、1度就職した方が短期間で成長できるのではないかと思い、ヘッドハンティング会社やプライベートエクイティファンド(投資ファンド)でインターンをしたりもしました。そんな中で、現在のビジネスパートナーとの出会い、日本人と東南アジアの若者との違いについての会話が、僕の考えを大きく変えることになりました。

0から100を目指すか、100から10000を目指すか

 その日本人と東南アジアの若者の違いというのは、職業選択観、キャリア観についてでした。日本では、"2世、3世"という言葉はネガティブな印象と共に使われることが多いと思います。僕が全く違う分野で活躍したいと思った理由もまさにそうで、何がなんでも自分の1人の実力で成功したいとずっと考えていました。

 一方で、東南アジアではどんな過程を経ても結果を出した人が偉い。家族を含め多くの人のサポートを得ての成功となるとよりすばらしく、世の中のためになると考えられている。そう教えられました。実際、インドネシアに移住してから非常に多くの起業家とお会いする機会がありましたが、特に東南アジアでは上手く行っている人ほど自分の置かれてきた環境を上手く活用し、多くの人を味方につけている人が多いと感じています。

 結局、起業して上手く行く人は圧倒的な強みと絶対に諦めない熱量、少なくともいずれかを持っており、特に人脈も少ない海外に渡ったらより前者が求められるようになります。東南アジアでは加工技術や製造の効率化といった部分が発達していない場合が多く、日本の製造業のノウハウは圧倒的な強みになります。幸いにして私は、その技術を持った方々に対して熱意をもって説得することで、力強いサポートも受けられるようにもなりました。その点に感謝しつつ結果で恩返しをすることを目指す決意ができたのも、100から10000を目指そうというインドネシア人の考え方に感銘を受けたからです。

 次は大学に入って初めて経験した挫折と、3年間過ごした和敬塾という寮での学びについてお話しします!