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アジア人は私だけ~米大学留学記(4)最初から「分かり合える」のはなぜ?

渡邊知彩杜 authored by 渡邊知彩杜
アジア人は私だけ~米大学留学記(4) 最初から「分かり合える」のはなぜ?

 前回は歴史的黒人大学(HBCU)での学問的な学びについてご紹介しましたが、ここで一度根本的な疑問に立ち返ってみたいと思います。結局のところ、なぜスペルマンの学生はHBCUで学ぶことを選んだのでしょうか?

アイビーリーグよりHBCUを選ぶ理由

 オリエンテーションや授業を通して、HBCUがアフリカ系アメリカ人にとって特別な場所であることは大分理解したつもりでいましたが、それでも私は世界的に有名な大学がいくつも軒を連ねるアメリカで、学生があえて小さな女子大学を選んだ究極的な理由がいまいちわからないというか、腑に落ちずにいました(しかも、聞いたところによると、スペルマンの学生の中にはいわゆるアイビーリーグと呼ばれる超名門大学から奨学金付きの合格を貰っていた人も少なくないそうです)。単に「世界を変える」リーダーになりたいのであれば、それこそ世界に名を轟かせる名門大学で学んでも良さそうなものです。

 ところで、スペルマンにはSpelman introductionという自己紹介のテンプレートのようなものがあります。誰かと初めて会った時は大抵Spelman introductionしよう!という流れになり、名前、出身地、専攻、学年、そして「なぜスペルマンを選んだのか」を順番に話します。

 新学期が始まってしばらくの間は、初回の授業などで皆のSpelman introductionを聞く機会がよくありました。その中で、ほとんどの学生が言及していたのが、「アメリカでNo.1のHBCUだから」という要素でした。しかし、それ自体は理解できるのですが、「で、だからなんでHBCUなの?」という疑問がずっと私の中にありました。

サンクスギビングデー

 ある日、同じ寮に住んでいる学生になんでスペルマンを選んだの?と聞いてみたところ、「HBCUにいると、ホームに帰ってきた感じがする」という答えが返ってきました。アフリカ系アメリカ人はこの国で大変な経験をしてきた。そしてここには同じ思いを共有できる仲間がいる、というのです。

 シンプルな答えですが、私は何か靄が晴れたような気がしました。多文化・多人種・多民族社会のアメリカにおいて、同じバックグラウンドを持つ者が集まったコミュニティが「ホーム」になるのは容易に想像できると思います。これは別にアメリカに限った話ではなく、日本でも出身地や出身校、社会・経済的階層など、似た要素を持つ人間が寄り集まり、共感や一種の安心感を得るというのはよくあることです。

 しかしアメリカ社会の中で特に不利に扱われることの多い黒人学生にとっては、黒人大学というコミュニティが、単に同じ話題で盛り上がれるとか、そういう次元を超えて、周りを気にせず自分たちらしくいられる一種の安全地帯のような役割を果たしているのかもしれないと感じました。そして実際に、そのような共通の経験に裏打ちされたスペルマンの学生たちの結束は、(オリエンテーション等からもわかるように)驚くほど固いです。

誰も人種と性別を気にしなくてすむ場

政治学部のイベントで研究発表をした時の写真

 そしてもう一つ、スペルマンで学ぶ中で、私が一番重要なポイントではないかと思うのが、「皆が女性であり、黒人である」という点です。何をいまさらと思われるかもしれませんが、ここをあえて強調したいのは、実は私も似たような経験をしてきたからです。

 私は高校、大学と計7年にわたり女子校で教育を受けてきました。女子高を選んだ元々のきっかけは、学校のレベルとか立地とか色々な要素が重なってのことだったのですが、異性の目を気にしない自由な高校生活がとても楽しかったので、大学も女子大を選び、縁あって留学先も女子大になってしまいました。そして今改めて考えてみると、女子校と共学校の最も大きな違いは、「女であることが問題にならない」というところにあると思うのです。

黒人女性の自殺率が増加していることに関するメッセージ。学内には様々な政治的主張があふれている

 共学校に通っていた中学時代、男子はこれをして、女子はそっちを担当、というような区別のされかたにずっと疑問を抱いていました。もちろん向き不向きはありますが、能力的に不可能なわけではないのに、最初から自分の役割を決められてしまうことに何ともいえない違和感がありました。ところが、女子校ではそもそも全員が女子なので、集団の中で性別を理由に何かをしたりしなかったりということはなく、華奢で可憐な女の子でも重いものを持つし、学校行事となれば大工仕事だってします。女子校では、自分の性別を過度に意識することなく、良くも悪くもあらゆることにチャレンジする度胸と自信がついたと感じます。

 同じように、そもそもほぼ全員が黒人女性であるスペルマンでは、誰も性別を気にしないし、誰も人種を問題にしません。人種によってなんとなくグループが分かれるということは当然ながらありませんし、序列ができることも、レッテル張りされることもありません。

最初から「分かり合える」人間関係

 東海岸出身の友人は、高校時代を多人種・多国籍の環境で過ごす中で、しばしば白人のクラスメートに「(黒人だから)お前もバスケするんだろ?」「ヒップホップ好きなんだろ?」といった質問をされたそうです。これは必ずしも相手を侮辱する意味が込められているわけではない(と思われる)、冗談交じりの些細なやり取りですが、あまりにも頻繁にこんなことを言われるので「ただただうざかった」と言っていました。これが黒人だけのコミュニティとなれば、バスケをしてヒップホップを聴くのか? なんて馬鹿げた質問は出てくるはずもなく、「分かり合った」状態から交流をスタートできます。

Japan Clubのイベントで書道教室を開催

 ここアメリカにおいて、人種問題は常に議論されるべき最重要課題の1つではありますが、日常生活の中であえて人種を持ち出す必要のないシーンでも、変な気を使ったりする気まずさがない、というのはすごく大きいのではないかと思います。

 教育機関としての機能について考えてみると、多様性のある環境というのは、様々な価値観を知り、他者との交流の中で柔軟に思考しよりよい答えを導き出す、という意味でとても優れていますが、一方で、ある面において多様でない、言い換えれば同質性の高い環境というのも、特定の目標に向かって集中的に教育をする上でメリットがあると思います。教育効果を高めるという点では、入学試験で同程度の学力を持つ学生を選別するのもそのひとつでしょう。「黒人女性のリーダーを育成する」という目標を掲げるスペルマンについていえば、前回書いたように、あそこまで黒人コミュニティにフォーカスした狭く深い教育ができるのは学生が皆黒人であるからに他なりません。

 HBCUという環境は、黒人学生にとって、単にいい教育を受けられる場所というだけでなく、肩の力を抜いて本音で語り合える、ひとつの「居場所」なのだと思います。そして、スペルマンには「女性であり黒人である」という二重のフィルターを介して学生が集まっているからこそ、差別や偏見に足を引っ張られることなく、ひとりの人間としての真の力を思う存分伸ばすことができるのではないでしょうか。

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