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ダウンタウン元マネジャー
お笑いから家業へ

ダウンタウン元マネジャー <br />お笑いから家業へ

 アウトドア用品を手がけるロゴスコーポレーション(大阪市)の副社長、柴田晋吾氏はお笑いコンビ、ダウンタウンの浜田雅功さんの元マネジャー。父が社長を務めるロゴスに入社後も「お笑いもアウトドアもエンタメ」と、異色のキャリアを生かす。

同志社で7年間ラグビーに打ち込む

 ロゴスはアウトドアの入門者向けブランドとして知られる。主力はテントやバーベキューグリルなどで、自社で企画した商品を海外の協力工場で生産。スポーツ専門店やホームセンターで販売するほか、約40カ所の直営店を持つ。

 柴田氏にとってロゴスは子どものころから身近であり「中学1年までナイキ、アディダスと並ぶ世界3大スポーツブランドの一つと思っていたほど」。創業者は柴田氏の曽祖父で、祖父の代まで船具が主体だった。父が入社後、アウトドア用品をスタート。アイデアマンである父は商品開発の先頭に立ち、事業転換を実現した。

 それだけに柴田氏が子どものころ、父は多忙だった。柴田氏が母とロゴスのファミリーセールに顔を出すと、父は汗まみれで、着ていたポロシャツが汗染みで白くなっていた。母に「それだけ頑張っている」と聞き、「めちゃめちゃかっこいい」と思った。それでも父と遊べるのは商品テストを兼ねたキャンプだけ。朝4時ごろに起床し、家族で琵琶湖近くのキャンプ場に向かった。

ロゴスコーポレーション副社長の柴田氏は1983年生まれ。同志社大学卒業後、吉本興業を経て父が社長のロゴスに入社

 高校から父と同じ同志社大学の系列校に進むとラグビー部へ。なかなか試合に出られなかったが、自他ともに認めるポジティブな性格の柴田氏は全然めげなかった。高校3年で「あと1勝で春の大阪府大会で優勝」という試合で初出場。しかし「終了間際に1プレーしただけ。しかも負けた」。同大に進学後もラグビーを続け、2回生で1軍の練習に参加するチャンスを得た。だが、このときは「メンバーに日本代表がいてスクラムを組んだら、5分で腰を痛めて離脱」。4年間で1軍はそのときだけだったが、「チームプレーが好きだし、いつか出られるのではと思っていたから、楽しかった」と振り返る。

 ロゴスはこのころ、売掛金が入らず経営が厳しい時期があった。父は「一気にI字回復する」と宣言。物流改革をテコに業績を回復させた。父を「かっこいい」と思う気持ちは、いつしか「いっしょに仕事したい」思いに変わったが、それでも大学を出てすぐにロゴスに入ろうとは思わなかった。理由の一つは業界のトップ企業で働きたかったこと。「ラグビーでトップになっていないし、ロゴスもアウトドアの首位でない。"一番からの眺め"を知りたかった」。大手電機メーカーに内定。母は大喜びした。

ロゴスコーポレーションの商品はアウトドアの入門者向けとして人気が高い

 もう一つがテレビの世界を知ること。ロゴスが一時テレビCMを流していたほか、テレビ番組に登場した商品に反響があったことなどから、テレビの発信力に興味があった。番組制作を手がける吉本興業に応募したところ、順調に最終面接まできた。「どうしたら入れるか」と父に聞くと、「『内定できるならこの場で他社の内定を断る』と宣言したら、自分なら採用するかも」。柴田氏はこれを実行。緊張して反応を待つと、面接室に喫茶店の女性店員がコーヒーを持って入ってきた。面接官は届いたコーヒーを飲むと一言。「で、何の話だっけ」。一気に力が抜けたがその分、会話が盛り上がり、終了時には「面白いから、落ちたらタレントで入れ」と言われた。内定を確信したが、2日後に合否を告げるはがきがポストに到着したときは緊張した。慌てて確認しようとすると、その前になぜか郵便の配達員から「内定です」と知らされた。

 大手電機メーカーとどちらを選ぶかは1カ月ほど悩んだ。両親は何も言わなかった。最終的に自分で「家業はものづくりだがそれ以外も大事。今ないものがあったほうがいい」と考え、吉本興業を選んだ。父は「ほんまか、お前」と笑い、母も「自分の人生。好きにしたらいい」と笑った。

熱い世界を陰で支えた5年間

 入社後はマネジャー職に配属。テレビ局や劇場を回る毎日が始まった。お笑いタレントはとにかく熱さや向上心にあふれていた。売れっ子の漫才コンビは「今いいところだから」と食事の時間も惜しみ、買い出しの牛丼を食べながらネタづくりに熱中していた。大御所の漫才コンビは舞台が終わると、2人だけで必ず30分ほどかけてその日のステージを検証。そのときは誰も近づけなかった。ラグビー一筋だった柴田氏は「自分は熱い」と思っていたが、彼らはそのレベルがまったく違い、自らの熱さに周囲の多数のスタッフをぐいぐい巻き込んでいた。

 マネジャー業務はタレントの身の回りのサポートからスタッフとの打ち合わせ、スケジュール管理、出演料の交渉、売り込みまで多岐にわたる。先輩マネジャーからは「まめさ、気遣い、愛されるキャラクターが大切」とアドバイスされた。配属は当初、大阪で南海キャンディーズ、中川家、フットボールアワーなどを担当。やがて東京に移り、ダウンタウンの浜田さんの担当に抜てきされた。お笑いコンビ、ライセンスを売り出そうと知恵を絞り、俳優やアイドルユニットも手がけた。「忙しいが、面白いお笑いがすぐ近くにある楽しい毎日だった」

 吉本興業で働くのは、実は最初から5年と決めていた。「やはり父の会社に入りたい気持ちはあり、父といっしょに仕事をする時間を大切にしたいと思った。そのためには5年がちょうどいいし、最初からその分やり切る」つもりだった。次第に大きな仕事を任され、やりがいも増えたが、決意は変わらなかった。

アウトドア用のピザ釜も商品化。手軽にピザを焼くことができるため、人気が高い

 それでも柴田氏は当時、家業への思いをファミリーに伝えていなかった。転機はちょうど5年目に入ったころ。妻となる女性と結婚を考えるようになり、父にそのことを伝えた。すると、帰ってきたのは思いがけない言葉だった。

 「家はどうするのか、ロゴスはどうするのか」。父から事業の承継を尋ねられたのは初めてだった。父はこのときまで、ずっと待ってくれていた。

 自分が求められている――。こう気づいた柴田氏は自然と涙があふれ、素直に言葉が出た。「継がせてください」。そこからは大泣きになったため、父がどう答えたかはよく覚えていない。それでも父子の思いはこのとき確かに重なり、父は入社を許した。

 吉本興業に在職中、タレントには家業のことを話さなかった。ライセンスの2人が「親は何をしているのか」と聞いたときは「テント屋です」とだけ伝えた。2人は「ふーん」と言ったきりだった。ある日、トークライブ後の食事中、「父の経営するアウトドアブランドのロゴスに入る」と伝えると、2人は「そうだったのか」と驚いた。彼らが人気番組「M―1グランプリ」の決勝戦に進出したときは本当にうれしかった。2人と話すうち、柴田氏はいつしか涙が止まらなくなった。

柴田氏の発案で、直営店には子どもが楽しめるゾーンをつくった

 ダウンタウンの浜田さんには上司があらかじめ退社を伝えてくれたが、ある日の打ち合わせ後、自分からも直接伝えた。浜田さんは「辞めるらしいけど」と切り出すとこう続けた。「お前はこの仕事が嫌で辞めるわけやない。頑張ったし、おれらについてよくやったなあ。おれはお前を認めているよ。仕事での関係は切れるけど、縁は切れへんから。まあこれからもよろしくな」。柴田氏はこのときも号泣した。

 その後もタレントに別れを告げるたびに泣いたという柴田氏は「家では寝言で『辞めたくない』と言っていたらしい」と振り返る。会社を去る日が近づいたとき、総務担当者に「退職届けを出してほしい」と言われ、驚いた。3カ月前に提出済みだったため確認すると、受け取ったはずの上司は「ごめん、なくした」。改めて提出し、吉本興業でのマネジャー生活を終えた。

「お笑いもバーベキューもエンタメだ!」

ロゴスコーポレーションの本社は大阪南港の周辺にある

 新婚旅行を経てロゴスコーポレーションに入社する直前、父に言われたことはよく覚えている。「会社をやみくもに大きくすることは望んでいない。むしろ継続が大切だし、生き延びることが社員にも会社にもハッピー。そのためには現在の主力がアウトドアだからといって、しがみつく必要はない。そして、これから生き残るすべを考えるだけの余裕が今のロゴスにはある」

 柴田氏は前職の経験を生かそうと、広報担当から業務をスタート。「だからといって人の仕事をとるのはおかしい」と考え、自分の仕事をつくることから始めた。自社のホームページを見直し、ウェブマガジンを立ち上げたほか、ブランドの認知度を上げるために音楽フェスティバルへの協賛も決めた。

 華やかなテレビの世界から家業に入り、戸惑いがなかったわけではない。

 マネジャー時代と比べると携帯電話が鳴る回数がずっと少なくなり、少しさびしい気持ちになった。テレビに未練はないはずが、半年ほどはバラエティー番組をみる気持ちになれなかった。前職との違いから父に「言い回しがくどい。端的に言え」と指摘されたこともあった。

柴田氏は「お笑いもキャンプもエンタメだ」と気づき、マネジャー時代の経験を家業でも生かす

 それでも根っからポジティブな性格。ライセンスのトークライブのゲストに呼ばれたとき、バーベキューの楽しさを話すうちに柴田氏は「お笑いもバーベキューも同じエンタメ。ロゴスでも皆を巻き込んで楽しいことができる」と気づいた。ノートを何冊も買い、自社にあるもの、他社にあって自社にないものなどを挙げ、それぞれについて「自分ならこんなことができる」と書き上げた。次第に経営の知識不足を感じ、同志社大学大学院のビジネス研究科へ。京都の老舗の経営に刺激を受け、同族企業のメリットやデメリットも学んだ。

 4代目にあたる柴田氏が将来を見据えて力を注ぐのが、新たな顧客の開拓。初心者向けブランドである以上、アウトドアを楽しむ人を増やすことが会社の未来につながる。柴田氏は「キャンプに興味がない人も楽しめるようにしたい」と考える。そこで、吉本興業時代の人脈をフル活用しながら店頭用のオリジナル番組の制作を開始。番組には旧知のタレントが協力する。直営店には子どもが楽しむゾーンをつくった。「勤務先は変わったが、仕事相手はあまり変わらない」と笑う。2016年に副社長に就任。父と経営についての考えが違うこともあるが、そんなときはとことん話し合う。親子の会話は最近では仕事がほとんどだ。

 マネジャー時代のタレントらとはときどき連絡をとる。大学院に通い始めたとき、浜田さんに「今、こんなことをしています」と伝えると「お前が?」と言われ、大笑いし合った。彼らから今もさまざまな刺激を受ける毎日だ。
(コンテンツ編集部次長 中沢康彦)[日経電子版2017年1月11日付]

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