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[ liberal arts-大学生の常識 ]

憲法のトリセツ(6)立憲主義=「権力の抑制」
だけでは説明できない

憲法のトリセツ(6) 立憲主義=「権力の抑制」<br />だけでは説明できない
若者も政治に目を向けよう(今年の成人式風景)

 世界の憲法の歴史を振り返ってきました。皇帝や王といった絶対権力者の暴走をいかにして抑制するか。それが憲法の成り立ちであることがわかります。これを憲法学者は「立憲主義」と呼びます。

憲法は「政府への命令」?

 ダグラス・ラミスさんは米海兵隊の一員として1960年に沖縄に赴任しました。除隊後も日本に残り、ベトナム戦争の反戦運動などに参加。のちに津田塾大教授などを務めました。

 ラミスさんの主著に『憲法は、政府に対する命令である。』(2006年、平凡社)があります。国家と国民の関係を社会契約論などに基づいて分析し、最終的にはこんな結論に至ります。

 「憲法に命令として従う義務があるのは国民ではなく、政府である」

ダグラス・ラミス氏の主著『憲法は、政府に対する命令である。』(2006年、平凡社)

 国民は積極的に社会契約したという意識が希薄だが、国家は間違いなく契約の当事者だという理屈です。「権力の抑制」の究極の形が「政府への命令」説だと思います。

 では、主流派の憲法学者はどう説明しているのでしょうか。1999年に亡くなった芦部信喜東大名誉教授の『憲法 第四版』は「憲法は自由の基礎法である」と説きます。すべての個人は生まれながらに自由に活動する権利がある。その自由主義を法的に保証する仕組みが憲法であるという考え方です。

 憲法が成り立つためには、自由主義という近代社会の基本ルールが人々に浸透していると同時に、「法の支配」という考え方が重要になります。

 ものごとを判断するとき、立派な人に裁いてほしいと願うのが日本人の伝統的な思考法です。テレビドラマでおなじみの『大岡越前』『遠山の金さん』などが典型例です。

 一方、そんな個人の裁量は信用せず、統一的なルールを定め、誰が裁判官だろうと、ぶれがないようにするのが「法の支配」です。それを象徴するのが英国の法律家エドワード・コーク(1552~1634年)の次の言葉です。

 「国王は神と法の下にあるべきである」

 現在、民進党などの野党が安倍政権の憲法観を批判し、「勝手に憲法解釈を変えるなどの行為は立憲主義に反する」と批判しているのは、こうした歴史的経緯を踏まえてのものです。

 ただ、欧米では異なる考え方も生まれました。権力を抑制したいのは市民ですから、ルールをつくる場である議会への市民参加が不可欠です。

 芦部氏は(1)市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図る(2)「法の支配」はその点で民主主義と結合する――と説きました。市民が王を抑制するには、国民の声を反映する議会が制定する法によって王の行動を制限するのがよいと考えたのです。

国民が一枚岩でない時代

 ところが、立憲主義と民主主義は相いれないことがある、と気がついた人がいます。大竹弘二南山大准教授と国分功一郎高崎経済大准教授が昨年、出版した『統治新論 民主主義のマネジメント』(2015年、太田出版)に2014年に安倍晋三首相の国会での発言が例示されています。当時は集団的自衛権をめぐる憲法解釈の是非が話題となっていました。

「憲法解釈に責任をもつのは選挙で国民の審判を受けるこの私だ」。2014年2月の衆院予算委で安倍首相はこう答弁した

 安倍首相は衆院予算委員会でこう発言しました。「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」

 憲法解釈を変更するぞ、との公約を掲げて選挙に勝利した党が組閣した政権の公約が実現しないのは民主主義に反する――。これが安倍首相の言い分です。

 民進党などは「憲法の番人」と呼ばれ、憲法解釈を長らくしてきた内閣法制局があることで、日本の法秩序は保たれる、と考えました。

 『統治新論』は「民主主義を守れ、立憲主義を守れ、というのはなんとなくスローガンとして唱えられているけど両者の間にはずれがある」と説き、ヒトラーが進めた「合法的革命」、すなわち議会制民主主義のもとでの独裁体制づくりにもかかわると指摘しました。

 憲法がこの世に登場した近代では、王と市民という対立構造が明確でしたが、現代では主権は市民が持ち、市民と市民の意見が相いれないことがあるという時代になっています。その際に憲法がどこまで権力を縛ってよいのか。極めて難問です。この話は憲法改正の是非について触れる際に再述します。

 立憲主義とは何か、と問われれば、「権力の抑制」と答えるのが王道です。しかし、それだけでは説明できない状況が生まれている中で、日本の与野党がすれ違いの議論をしていても有権者にはわけがわかりません。

 18歳選挙権の実施に伴って高校などで始まった主権者教育では「国民主権」は教えますが、国民が一枚岩ではない、それをどう束ねるのがよいのかは教えません。それを考えるのも大事な憲法論議です。

 次回もこの問題を続けます。
(編集委員 大石格)[日経電子版2017年1月4日付]

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