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[ career-働き方 ]

ケータイ大好き!(1)「ものづくり」に奇跡的にも出逢えてよかった

中澤優子 authored by 中澤優子UPQ代表取締役CEO
ケータイ大好き!(1) 「ものづくり」に奇跡的にも出逢えてよかった

 こんにちは。UPQ(アップ・キュー)代表取締役CEOの中澤優子です。海外での生活経験などの特に変わった経歴もなく、絵に描いたような日本教育の枠の中で育ち、社会人になりました。ただ、その後の経験は少し普通ではないかもしれません。メーカーに5年勤務し、訳あって退職後、2013年にカフェ開業。そして2015年夏、家具・家電ベンチャーUPQを立ち上げました。なお、2016年秋に長男を出産、母にもなりました。本連載では、私が見てきた、そして見ている世界をありのままに書き連ねていきます。そして、誰がなんと言おうと「ものづくりは楽しい」ということをお伝えします(笑)。

UPQの商品を手にする中澤優子さん

「将来の夢」なんてなかった

 卒業文集"あるある"の「将来の夢」。何のために書いているのかずっと不思議だった。幼稚園の頃は、「ようちえんのせんせい」になりたいと書き、小学生の頃は「オリンピックに出たい」と書いた。幼稚園では、「先生」が1番身近な職業だったから。小学生時代は、バルセロナオリンピック(1992年)とアトランタオリンピック(1996年)に感化されたから、という単純な理由である。

 2歳から14歳まで、ピーク時は週7日クラシックバレエに通っていたのに、「バレリーナになりたい」と書いたことはなかった。その理由も、卒業文集のタイミングで1番興味のある職業ではなかった、というただそれだけ。そして、文集に書いたどの夢も本気ではなかった。子どもの頃の将来の夢なんてその都度変わっていくもので、テレビや本で見聞きする夢を叶えられる特別な人もいるけれど、私にはそんな特別な夢も才能もない。「職に就く」ということに向き合うのはまだまだ先のことだ、と高校3年生になるまで思っていた。

 私が通った東京都立両国高校は、東京下町のいわゆる進学校。「大学or浪人」が当たり前で、高卒で就職する同級生はほぼゼロだった。クラスには中学までには出逢わなかった、絵に描いたような「秀才君」も「ガリ勉君」もいた。が、全員でなかった。恋愛もすればオシャレもするし、部活に全力で打ち込むけれど、たまには校則をやぶって先生にこってり絞られる。そんないわゆる"お年頃"の高校時代を友人たちと過ごした。特に家業があるわけでもない私は、職業を真剣に考えるのは「大学」で、と当たり前のように思い込んでいた。

バスケの合宿(高校)

焦り

 高校3年生の夏休みを過ぎると、どんなに赤本から目を背けていた両国生も受験と向き合うことになる。「最後の追い込みでどうにかなる」「高3の夏は1度きりだから!」といろんな理由をつけて、引退したバスケ部の夏合宿に無理矢理参加していた私も、いよいよ進路を考え始めた。ふと、周りの友人をみてみると、「獣医になりたいから」「教師になりたいから」「旅行業に就きたいから」と、具体的な職業ありきで進路を考えていることに気づいた。

 「みんな、夢あったんだ......」

 必死に自分に向き合って考え始めたが、一生やり続けたい職業なんて、そうすぐには思い浮かばなかった。ただ、テレビドラマで見た「腰掛けOL」にだけはなりたくなかった。結婚したら、子どもを産んだら、女は家に入るという人生だけはイヤだと思った。本当に、ただそれだけだった。「私ってなんて中身がない人間なのだろう」と、突然恥ずかしくなったのを今でも強く覚えている。しかし、焦って考えても、「なりたい職業」はすぐには見つからなかった。焦り以上に、情けなくて悔しかった。

 大学は行けるところで構わない。だが、大学4年間をフルに使って「なりたい職業」を絶対に見つける、と心に決めた。結局、高校の卒業文集には、「アナウンサーになりたい」と書いた。完全なるノリで。

UPQBIKEパルコ福岡

「業界地図」とプレ就活

 大学初日、生協の就活本コーナーで「業界地図」を手に取った。当たり前ながら、ほとんどの業界の構造を知らなかったので、私にとっては非常に良い導入本だった。ただ、書いてある内容をどんなに読んでも、臨場感を感じられなかった。そこで、先輩の起業家たちが話をしに来てくれるという講義に率先して出席しているうちに、もっと多くの生の声を聞きたいと思い、就活を早くはじめられないかと考えるようになった。

 大学2年の秋、3年生にこっそり混ざって合同就職説明会に参加した。「社員」と話せる臨場感のある場所だった。それからは、業界地図を片手に、各業界の1~3位の会社と、規模は小さいが独自路線を走りポジションを取っている会社の話を聞いて回った。

 「60歳まで働く」と考えたときに、1番私自身にフィットすると思えたのが「メーカー」だった。20歳の春になって、ようやく「なりたい職業」への糸口が見えたのだ。

 そこからは早かった。メーカーで働いていきたい、とはいえ、機械に詳しいわけでも得意なわけでもなかった。テレビの映りが悪ければ叩いてどうにかしようとしていたし、思うように動かないものの電源はとりあえずコンセントから引き抜いて差し直すような扱いをする。いわゆる機械音痴の分類だ。

 しかし、「ケータイ」だけは違って、隅々まで使いこなせた。中学1年生から持ち始め、毎日肌身離さず使っていた。20歳になるまでに、かれこれ20台ほど買い替えて、当時は2台持ちまでしていた。

カシオ時代のデスク

 「私が欲しいと思うケータイをつくり続けたい。だから、ケータイメーカーで働く」。

 夢のなかった私に、夢が見つかった瞬間だった。まだ働けると決まったわけでもないのに、すぐに駆け出したくなるほど嬉しかった。就活先を絞る傍ら、大学生のうちにできることはないかを必死で考え、携帯電話販売店でアルバイトをすることに決めた。

 業界地図によると、通信業界は複雑で、メーカーが携帯電話端末を製造し、それを通信キャリアに卸す。それをキャリアから販売代理店が買い取り、ショップや量販店に並べる。私たち消費者とメーカーの間には、いくつものプレーヤーが存在することに気づいた。

 加えて、携帯電話業界は、ものすごいスピードで進化を遂げてきたのは、いちユーザーとして体感してきていた。白黒でカタカナ表示しかできないストレートの携帯電話から、フルカラー液晶になり、カメラやワンセグやミュージックプレーヤーや決済機能までついて、形も多種多様になっていた。1997年から2005年、たった8年だ。さらに、その間、就職氷河期も重なっていた。

 「ケータイ世代の消費者の気持ち、かつ販売店の実情がわかる若い人材」にこそが、携帯電話メーカーに必要であり、これこそが、夢を叶える近道だと信じ、即行動にうつした。