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[ liberal arts-大学生の常識 ]

「トランプの科学」の象徴、
2つの巨大な箱舟

「トランプの科学」の象徴、2つの巨大な箱舟

 科学者共同体の多数意見である気候変動を否定する米トランプ政権。主要な科学者やメディアの発する情報は嘘なのではないか、との疑いを繰り返しばらまいている。だが決して科学に対して無知なのではない。科学者の主張を理解した上で、あえて疑いをばらまくのが「トランプの科学」。エリートである科学者たちを否定する階級闘争の「物語」によって大衆を魅了し、意識的に人気取りに利用する。たばこやエネルギー業界のロビイストが使ってきた手法を大衆の娯楽にする政治手法へと昇華させたのが「トランプの科学」の神髄だ。そうした手法を象徴する2つの巨大な箱舟が現代米国にある。

 アリゾナ大がある米アリゾナ州トゥーソンから車で30分ほど北東に走ると、荒野の中に異星の基地のような巨大建築群が見えてくる。ネギ坊主のような突起がついたガラス張りの建物がひときわ目立つ。同大の研究施設「バイオスフィア2」だ。約1万2700平方メートルの敷地の上にガラスパネルに囲まれた20万立方メートルもの大温室が建っている。地球の小型模型として気候変動の影響などが研究されている。

宇宙への移住を想定し、閉鎖環境での長期生活実験をしていた「バイオスフィア2」。荒野に巨大な実験施設が並ぶ。(米アリゾナ州オラクル)

 もともとは将来人類が宇宙で暮らす技術を確立するため、完全に独立した閉鎖空間で長期間生活する実験施設として1991年にベンチャーが1億5千万ドル(約160億円)以上をかけて完成させた。中は海岸、熱帯雨林、サバンナ、砂漠といった気候別に空間が分割されている。かつてこの閉鎖空間で2年にわたり一歩も外に出ずに集団で暮らす実験がくり広げられた。それは一定数の動植物、細菌、水、土などの種を巨大建造物の中に詰め込んだまさに現代の「方舟」だった。

バノン氏、かつて温暖化研究の拠点に関わり

 アリゾナ大職員で実験に初期から携わってきたクラウディオ・ジラルディーニさんは「実験参加者はこの自立環境の中で動物を育てて食べ、耕作し、無事に生還した。微生物の酸素吸収による酸欠という想定外の事態を除けば順調だった」と語る。だが、あまりにもコストがかかりすぎた。「当時は観察データを集約・管理するシステムもなかったので自分で作った」と実験を計画し、自ら参加したジェーン・ポインター氏は回想する。建物以外にも様々なコストが膨らんだ。結果、運営は立ち行かなくなった。

 90年代半ばにコストカッターとしてここに呼ばれたのがスティーブン・バノン氏。トランプ政権の首席戦略官で、陰の権力者とされる人物だ。職員をリストラし、温暖化など地球環境をシミュレーションする研究施設として延命する道筋をつけた。

 「科学者たちの多くはここで観測できる現象が地球でも起きると考えている」と同氏が語る当時のインタビュー動画が残っている。少なくともバノン氏は当時から科学者の多くが温暖化を認めていることを認識していた。

 それがその後、同氏は温暖化を否定する米保守系メディア、ブライトバート・ニュースの会長を務めることになり、今や政権の温暖化否定政策に大きな影響をふるっている。バノン氏は無知なのではない。科学的な確からしさよりも大衆に受けるメッセージを政治的にあえて選んでいるのだ。

 恣意的に科学知識をもてあそぶ態度を象徴する建造物が米ケンタッキー州にある。こちらは本物の箱舟だ。キリスト教原理主義の団体アンサーズ・イン・ジェネシスが昨年、高さ15メートル、幅26メートル、長さ155メートルの巨大な木の塊を現代によみがえらせた。中には恐竜と人間が共存していたという資料イラストや、おりに入って箱舟に乗っていたということで恐竜の模型が展示されている。聖書に記述のない恐竜の化石がどうして出るのかという疑問に答えたものだ。

キリスト教原理主義の団体アンサーズ・イン・ジェネシスが実際に建設した巨大な箱舟(米ケンタッキー州ウィリアムスタウン)

 箱舟の中の説明板は化石が出土する時期の違いは無視し、洪水によって化石が埋もれた層がたまたま分かれたと説明する。地質学の都合のいい部分だけを取り込んでいる面は否定できない。箱舟には巨大な排水装置、水のろ過装置がついていたと説明する動画が流れるが、特にその証拠があるわけではない。この箱舟の中では進化論は、もともと別の種だったものが自然淘汰された現象を誤解した説として糾弾される。

 箱舟の建築資金は著名な科学啓蒙家ビル・ナイ氏を招いた討論会などのイベントを盛り上げて集めたものだ。同団体は現代科学と同じ土俵に立っているとの演出に余念がない。「物語」が先にあり、そこにあるのは科学の知識やイメージを部品のように都合良く寄せ集めて使う態度だ。

 これこそが「トランプの科学」が人気を集めるために使う手法そのものだ。宗教保守派はトランプ政権の支持者と重なる。昨年の大統領選ではトランプ氏は同州など宗教保守派が強い州の多くを制した。ただ、それがどこの社会にもいる単なる一部の原理主義者の言説として済ませられないのが、いまの米国政治だ。「トランプの科学」は共和党の支持基盤である特定産業と深くつながっているからだ。

科学的合意に疑義、たばこ業界に源流

 「トランプの科学」の源流をつくったのはたばこ業界であり、それを引き継ぎ資金面で支えてきたエネルギー業界だ。かつて大半の科学者の間でたばこが人体に有害であるという合意ができた後も、たばこ業界の支援を受けた一部の科学者が疑いをばらまき、規制導入を遅らせていた。「同じ科学者を今はエネルギー業界が支援し、温暖化への疑いをばらまいている」と反たばこ運動を主導してきたカリフォルニア大学サンフランシスコ校のスタントン・グランツ教授は指摘する。

 科学者の非営利団体「コンサーンド・サイエンティスト組合」のケネス・キンメル会長は「エネルギー業界が息のかかった科学者を組織し、政治献金することで世論や政治家を温暖化対策をさせない方向へ誘導してきた証拠がある」と激しく批判する。

 こうしたエネルギー業界の動きに警戒感を強めていたのが、科学の信奉者でありながらあえてトランプ政権に接近し批判を浴びるテスラ最高経営責任者(CEO)のイーロン・マスク氏だ。

 「補助金を減らすのは結構だが、各産業に公平にやってもらいたい」。トランプ政権幹部との会議でマスク氏はこう注文をつけ、エネルギー業界の我田引水の動きをけん制している。

 同氏は推薦図書として「世界を騙しつづける科学者たち」という本を挙げている。科学史家のハーバード大教授ナオミ・オレスケス氏による、「トランプの科学」の台頭を予言するかのような書物だ。たばこや温暖化の問題で、権威のある科学者が自分の専門外の分野で疑いをばらまく。少しでも疑う科学者がいれば、主要メディアが両論併記するため、科学的に結論が出ていないということになる。疑いをばらまくことをなりわいとする科学者を業界が支援し、それによって規制を遅らせる。それによって業界が既存の利益構造をできるだけ延命させる、というからくりをあばいている。

 もちろんかつて天動説がそうだったように、科学者の大多数が間違うこともある。だからこそ疑いの拡散はビジネスになる。「トランプの科学」は既存のエネルギー業界による再生エネルギー業界に対する大衆へのマーケティングの勝利という側面がある。

 トランプ政権の態度は「科学の否定」ではない。むしろ前提を疑うという一見科学的な態度を取り、畑違いの科学者の権威に頼り、科学的知見を部分的に引用して主張の中に取り込んでいる。

 同時に近代科学を近代科学たらしめている事実検証の手続きに対しては、驚くほど不誠実だ。再現可能な形で証拠を示し、相互に検証し合い、共同体として同意した事実を積み上げていく。近代の科学者の共同体が作り上げて来た体系に敬意を払わない。

 そうした知的に不誠実な振る舞いをしてもトランプ政権が一定の支持を集めるのは、米国において科学者共同体と教育水準が相対的に低い大衆との間に絶望的な知識の断絶があるからだ。

 米航空宇宙局(NASA)や米国立衛生研究所(NIH)の依頼を受けてマーケティングを支援するジェイド・ラベル氏はこう語る。「科学者の共同体は大衆に支持される『科学の物語』を語れていない。大衆にとっては温暖化論は科学者の陰謀だとする『トランプの科学』の物語の方がはるかに魅力的だ」
(シリコンバレー支局 兼松雄一郎)[日経電子版2017年4月7日付]

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