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[ liberal arts-大学生の常識 ]

変わり者たれ
知の冒険家・南方熊楠に学ぶ

変わり者たれ知の冒険家・南方熊楠に学ぶ

 2017年に生誕150年を迎えた南方熊楠(みなかた・くまぐす)の業績を再評価する声が高まっている。博物学や植物学、民俗学など多くの分野で足跡を残し、いち早く国際的に活動した行動力は、今でも参考になる。日本の学術水準はこのところ低迷傾向にあり、南方熊楠に学ぶ点はいろいろとありそうだ。

エコロジストの先駆者 森林伐採に反対

 和歌山県白浜町でこの3月、南方熊楠記念館の新館が完成した。52年前に建てられた旧館は耐震性に劣りバリアフリーにも対応していなかった。生誕150年を迎える今年にあわせ2年前に着工。鉄筋コンクリートの2階建てで、総工費に約4億7500万円をかけた。

 大半を県が支出したが、全国から約3300万円の寄付金も集まった。同県出身で1000万円を寄付をした中辻憲夫・京都大学名誉教授もテープカットに加わった。多くの熊楠ファンの支援で夢がかなった谷脇幹雄館長は、開館のあいさつで言葉が詰まるほどに感激していた。

米国留学中の南方熊楠(和歌山県白浜町の南方熊楠記念館で)

 展示室には熊楠が書き残した資料や採取した標本など約800点が並ぶ。8歳のころから書き写したという江戸時代の百科事典「和漢三才図会」にはじまり、英国滞在中に科学誌「ネイチャー」に投稿した論文、生涯にわたり採取を続けた粘菌(変形菌)の標本など多彩な内容だ。

 熊楠は19歳で日本を飛び出し、米国からキューバ、英国へと渡った。大英博物館の図書館に入り浸り、多くの蔵書を筆写した。展示品から抜群の記憶力、卓越した語学力、標本を作る一級の技術力が伝わってくる。

 晩年には明治政府が決めた神社の合祀(ごうし)や森林伐採に反対する運動を起こし、エコロジストの先駆者にも例えられる。昭和天皇が南紀地方を行幸した際にご進講し、このときキャラメル箱に入れた生物標本を献上した逸話も残る。南方熊楠記念館名誉館長でもある作家の荒俣宏氏は「熊楠を45年間調べてきたが、どんな人間なのか、調べるほどに分からなくなる」と話す。

 ほかの歴史上の大科学者と同様、学術が高度に専門化した現代から南方熊楠をとらえると、確かに当てはめる枠がない。東京大学予備門(現在の東大教養学部)や米ミシガン州立農学校(現在のミシガン州立大学)に入学しても途中で抜け出し、生涯、大学などの研究機関に所属せず活動を続けた変わり者でもあった。近代日本を代表する偉人に違いないが、一言で形容するのが難しい研究者といえる。

好奇心旺盛、国境や学問分野にとらわれず行動

南方熊楠記念館で展示している科学誌「ネイチャー」に投稿した熊楠の論文

 確実なのは、生命の起源や生き物の多様性に謎を抱き、知的好奇心を満たすためなら、国境や学問分野にとらわれず行動したことだ。「国際性があり業際的、そして在野に徹した研究者だった」(谷脇館長)

 南方熊楠研究の拠点となっている南方熊楠顕彰会(和歌山県田辺市)の田村義也・学術部長は「熊楠には東洋の学術研究の伝統を西洋に知らしめる強い思いがあった」と解説する。明治期の日本は西洋に学んで近代化に突き進んだが、熊楠はその風潮に強い不満を持っていたことが分かっている。

 ネイチャーに1893年に初掲載された論文名は「東洋の星座」。ある読者が「民族によって星座の見分け方に共通点や違いはあるのだろうか」と質問した投書に対する答えで、インドや中国で記載された星座を示しながら解説した。今からすると論文というよりは論評に近い。これを皮切りに熊楠はネイチャーに投稿を続け、約50本の原稿が掲載された。東洋の学術のレベルを示す志を貫いた。

 現代の科学者が南方熊楠のように、ただ好奇心に基づいて1人研究を続けることはほとんど不可能だろう。決してまねはできないものの、研究に挑む強い意志やずばぬけた行動力は、見習える点ではないだろうか。

 海外に留学する若い研究者が激減し、研究者の国際的なネットワークに日本人が入っていない問題が指摘されている。熊楠は開国して間もない日本で育ったが、軽々とその壁を越え多くの海外の研究者らと親交を深めた。「留学すると帰国後のポストがない」という言い訳も耳にするが、異文化に触れ視野を広げた方が研究だけでなくその後の人生にとっても彩り豊かになるはずだ。

 日本の研究力の低下は深刻な問題だ。しかしまだ強みを維持している伝統もある。創造性豊かな人材は続いて登場しているし、丁寧なもの作りや決めた目標を達成するまじめさは他国を寄せ付けない。意気消沈するばかりでなく、熊楠のように自国の力を再認識し、正しい情報を発信する気持ちも大切だ。

 地位や名誉、経済的な豊かさにはこだわりをみせず、飽くなき探究心に従って行動した熊楠の姿を、遠い昔の話と突き放すのではなく、研究者のあるべき姿に大きく関係しているとみた方がよいだろう。

酒蔵営む父や弟が研究資金を提供

 南方熊楠を取り巻く状況で、見逃してはいけない重要な点がもう一つある。資金だ。

 熊楠の父は1884(明治17)年に南方酒造(現社名は世界一統)を創業し、その稼ぎから熊楠に研究費や渡航費、生活費を提供し続けた。その家業は熊楠の弟が引き継ぎ、熊楠は帰国後も繰り返し弟に資金提供を依頼した。6代目の蔵元になる南方雅博常務は「現在の金額に換算すると、生涯を通じおよそ1億円を支援したようだ」と話す。

 研究生活を思う存分に送るには、しっかりした財源が必要な点は、昔も今も同じだ。

 南方熊楠の調査と研究は、蔵書や資料の目録が刊行された2006年以降、新たな段階に入ったという。これからも新しい発見が出てくる可能性がある。現に2年前、1935年当時の南方熊楠を撮影した映画が見つかった。「動く熊楠を見て存在感が一段と高まった」(田村部長)。これからどんな熊楠像が描き出されていくのだろうか。
(編集委員 永田好生)[日経電子版2017年5月1日付]

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